百済王「多沙津を朝貢する津路としたい」

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継体天皇(三十)百済王「多沙津を朝貢する津路としたい」

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原文

廿三年春三月、百濟王謂下哆唎国守穗積押山臣曰「夫朝貢使者、恆避嶋曲謂海中嶋曲崎岸也。(俗云、美佐祁毎苦風波)。因茲、濕所齎、全壤无色。請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。」是以、押山臣爲請聞奏。

現代語訳

即位23年春3月。百済王は下哆唎国守(アルシタリノクニノミコトモチ)の穗積押山臣(ホズミノオシヤマノオミ)に語って言いました。
「その朝貢する使者は常に嶋曲(ミサキ)を避けるごとに毎回風波に苦しむ。
海中の嶋の曲(クマ)の崎岸(サキ)をいいます。

それで、もたらす所(=船内の貢物の所蔵場所)のものを潤して、全てを損なってしまい、醜くなります。請い願う。加羅(カラノクニ)の多沙津(タサノツ)をわたしめが朝貢する津路(ミチ=海路)としよう」
それで押山臣(オシヤマノオミ)は、それを聞いて継体天皇に申し上げました。
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性格・能力

この記事の意味
この記事は「継体天皇(十八)百済の姐彌文貴将軍・斯羅の汶得至・安羅の辛已奚と賁巴委佐・伴跛の既殿奚と竹汶至」で「百済に己汶・帶沙を与えた」という記事と重複している!とされます。しかしこの記事は「帶沙を百済が必要とする理由」ですから、重複しているのではなく、「順番がおかしい」だけです。

でもですよ。日本書紀は政治的に書かれた正式な史書です。このくらいの矛盾は書いているうちに判明するわけで、順番が逆ならば、正すのが本当でしょう。正さない理由があったんじゃないかと思います。
多沙津
多沙津は既出の「帶沙」と同じ。同じ地名ですが、どこの地名かは分かりません。任那のどこかです。

穂積押山
穂積臣押山は百済との交渉で関わり、百済への任那の4県割譲の後に「大伴金村と押山は百済から賄賂を受けた」と噂が立った人物です。
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