帯沙江の攻防・物部は汶慕羅へ逃亡

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継体天皇(二十二)帯沙江の攻防・物部は汶慕羅へ逃亡

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原文

九年春二月甲戌朔丁丑、百濟使者文貴將軍等、請罷。仍勅、副物部連(闕名)遣罷歸之。(百濟本記云、物部至至連。)是月、到于沙都嶋、傳聞、伴跛人懷恨銜毒・恃强縱虐。故、物部連、率舟師五百、直詣帶沙江。文貴將軍、自新羅去。夏四月、物部連、於帶沙江停住六日、伴跛、興師往伐、逼脱衣裳、劫掠所齎、盡燒帷幕。物部連等、怖畏逃遁、僅存身命、泊汶慕羅。汶慕羅、嶋名也。

現代語訳

即位9年春2月4日。百済の使者の文貴將軍(モンクイショウグン)たちが罷(マカラム=帰国)を申し出たので、天皇はそれを許しました。物部連を添えて帰らせました。
物部は名前を欠いています(名前がわからない)。

百済本記には物部至至連(モノノベノノチノチノムラジ)といっています。


この月に沙都嶋(サトノセマ=巨済島)に至って、人づてに伴跛人(ハヘノヒト)は恨みを思い、毒(アシキコト)を含み、強いことを頼みに残虐なことをほしいままにすると聞きました。それで物部連は船師(フナイクサ=軍船)500を率いて、帯沙江(タサノエ)に行きました。文貴將軍は新羅から去りました。

夏4月。物部連は帯沙江に停住(トドマル)して6日。伴跛は師(イクサ=軍隊)を起こして、伐って来ました。衣裳(キモノ)を剥いで、持っているものを掠め奪い、ことごとく帷幕(キヌマク=垂れ幕)を焼きました。物部連は恐ろしくなって逃げて隠れました。命からがら汶慕羅(モンマラ)に泊まりました。
汶慕羅は嶋の名前です。
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解説

百済の将軍が新羅経由で百済に帰ったのは、伴跛国が百済と任那の間にあって、そこが通れないからです。そういうことを考えると新羅と百済はさほど関係が悪化していたわけでは無さそうですね。
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