仁徳天皇(日本書紀)
投稿:2015年05月03日 更新:2015年05月03日スポンサードリンク
要約
応神天皇即位41年2月 応神天皇崩御。皇太子の菟道稚郎子が大鷦鷯尊(=仁徳天皇)に位を譲るが、大鷦鷯尊も譲った。額田大中彦皇子が淤宇宿禰の屯田を自分のものにしようとして、菟道稚郎子と大鷦鷯尊に相談する。大鷦鷯尊は詳細を知る吾子籠を朝鮮から呼び寄せ、解決した。大山守皇子は皇太子になれなかった恨みを持っていて菟道稚郎子を殺そうとするが、大鷦鷯尊が菟道稚郎子に知らせて策略で大山守皇子を殺害。皇位が空いて三年経ち、菟道稚郎子が献上品を断るため周囲も困っていると、菟道稚郎子が皇位を譲るために自殺。仁徳天皇即位1年1月 難波に都を移す(高津宮)。仁徳天皇と武内宿禰の子の木菟宿禰は同日に生まれた。
即位4年2月 国内に煙が上っていないのを見て、国が貧しいと思い、3月に課役を免除する。
即位7年4月 煙が増えたのを見て天皇は喜ぶが、宮が壊れていることを皇后は悲しむ。
即位7年8月 大兄去来穗別皇子(=履中天皇)のために壬生部を。皇后のために葛城部を定める。
即位7年9月 諸国が課役を再開するよう要請するが天皇は断る。
即位7年10月 課役を再開し、宮を作る。
即位11年4月 堀を深く掘って逆流を防ぐように群臣に詔をする。
即位11年10月 堀江・茨田堤を整備する。天皇は神託を受けて河伯を祀る。
即位12年7月 高麗国が鉄の盾と鉄の的を献上。
即位12年8月 高麗の鉄の的を、盾人宿禰が射抜く。
即位12年10月 山背の栗隈県に堀を作る。
即位13年9月 茨田屯倉を作り、春米部を定める。
即位13年10月 和珥池・横野堤を作る。
即位14年11月 猪甘津に橋を渡す。都に大道を作る。感玖に堀を作る。
即位16年7月 皇后の嫉妬がひどいので、愛人の桑田玖賀媛を速待に養わせる(ようは結婚)。ところが桑田玖賀媛は速待に好意を持たず、帰郷の道中に病死。
即位17年 新羅の朝貢がなかった。
即位17年9月 砥田宿禰・賢遺臣を派遣して新羅を問い詰めると、貢物を献上した。
即位22年1月 八田皇女を妃にしようとするが皇后が断る。
即位30年9月 皇后が紀国に言っている間に、八田皇女を妃にする。皇后は怒って山背の筒城岡に行って帰らない。
即位30年10月 天皇は口持臣に皇后を迎えに行かせる。でも皇后は帰らない。
即位30年11月 直接に天皇と皇后が会うが、拒絶される。
即位31年1月 大兄去来穗別尊(=履中天皇)を皇太子に。
即位35年6月 皇后が死亡。
即位38年1月 八田皇女を皇后に。
即位38年7月 天皇と皇后は菟餓野で避暑をしていて、鹿の鳴き声が気に入っていたが、その鹿を何も知らない佐伯部が殺して肉を献上した。佐伯部は安芸の渟田に左遷。
即位40年2月 雌鳥皇女と隼別皇子の反逆とその鎮圧。伊勢神宮に逃げ込もうとするが、寸前で吉備品遲部雄鯽と播磨佐伯直阿俄能胡により殺害される。
即位40年11月 佐伯直阿俄能胡が雌鳥皇女から珠を奪っていたことが判明し、罪を問う。
即位41年3月 紀角宿禰を百済に派遣して、土地を調べる。酒君の無礼があった。
即位43年9月 依網屯倉の阿弭古が鷹を献上する。酒君が鷹を育てた。
即位50年3月 茨田堤で雁が子を産む。
即位53年 新羅が朝貢しなかった。
即位53年5月 竹葉瀬が新羅に問う。道中で白鹿を得て天皇に献上。竹葉瀬の弟の田道による新羅征伐。
即位55年 蝦夷が謀反。田道が征伐に行くも伊峙水門で死亡。田道の妻が憤死。田道の墓を暴いた蝦夷が大蛇に襲われて死ぬ。
即位58年5月 荒陵の松林の南の道にクヌギの連理の木。
即位58年10月 呉国・高麗国が朝貢。
即位60年10月 白鳥陵守(=墓守)に農作業と兼業させようとすると、白鹿になって逃げたので、そのままにする。
即位62年5月 大井河に引っかかっていた蓮子の木で天皇の船を作る。額田大中彦皇子が闘鶏で氷室を発見する。
即位65年 飛騨国の両面宿儺を難波根子武振熊に征伐させる。
即位67年10月 百舌鳥耳原の名前の由来。吉備の川嶋河に大虬(=水神)が現れて人を殺すので、県守を派遣して退治させる。
即位87年1月 仁徳天皇崩御。
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