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仁徳天皇(十九)桑田玖賀媛と播磨の速待
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十六年秋七月戊寅朔、天皇、以宮人桑田玖賀媛、示近習舍人等曰「朕、欲愛是婦女、苦皇后之妬、不能合以經多年。何徒妨其盛年乎。」仍以歌問之曰、
瀰儺曾虛赴 於瀰能烏苔咩烏 多例揶始儺播務
於是、播磨国造祖速待、獨進之歌曰、
瀰箇始報 破利摩波揶摩智 以播區娜輸 伽之古倶等望 阿例揶始儺破務
卽日、以玖賀媛賜速待。明日之夕、速待詣于玖賀媛之家、而玖賀媛不和、乃强近帷內。時玖賀媛曰「妾之寡婦以終年、何能爲君之妻乎。」於是天皇、欲遂速待之志、以玖賀媛、副速待、送遣於桑田、則玖賀媛、發病死于道中、故於今有玖賀媛之墓也。
瀰儺曾虛赴 於瀰能烏苔咩烏 多例揶始儺播務
於是、播磨国造祖速待、獨進之歌曰、
瀰箇始報 破利摩波揶摩智 以播區娜輸 伽之古倶等望 阿例揶始儺破務
卽日、以玖賀媛賜速待。明日之夕、速待詣于玖賀媛之家、而玖賀媛不和、乃强近帷內。時玖賀媛曰「妾之寡婦以終年、何能爲君之妻乎。」於是天皇、欲遂速待之志、以玖賀媛、副速待、送遣於桑田、則玖賀媛、發病死于道中、故於今有玖賀媛之墓也。
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現代語訳
即位16年秋7月1日。
天皇は宮人(ミヤノヒト=宮仕えの女官)の桑田玖賀媛(クワタノクガヒメ)を近くに使えている舎人(トネリ)たちに見せようと言いました。
「朕(ワレ)はこの婦女(オミナ)を愛したいと思っているが、皇后の妬みが酷くて、会うこともできず、何年も経った。どうしたら、この盛年(サカリナルトシ=成熟した年代)を邪魔されされないで済むだろうか?」
それで歌を歌って問いました。
水底(ミナソコ)ふ 臣の少女を 誰(タレ)養(ヤシナ)はむ
それで播磨国造の祖先の速待(ハヤマチ)が独り、前に進み出でて歌いました。
みかしほ 播磨速待 岩砕す 畏くとも 吾養はむ
その日に玖賀媛(クガヒメ)は速待に与えました。翌日の夕方、速待と玖賀媛が家に着きました。しかし玖賀媛は速待に好意を持ちませんでした。強引に寝床に近づきました。すると玖賀媛は言いました。
「わたしめは、寡婦(ヤモメ=独り者)で年をとりました。どうしてあなたの妻になれるでしょうか」
天皇は速待が想いを遂げれば良いなぁ、と思い、玖賀媛に速待を添えて、桑田(=玖賀媛の故郷)へと送りました。すると玖賀媛は発病して道中で死んでしまいました。現在でも玖賀媛の墓があります。
天皇は宮人(ミヤノヒト=宮仕えの女官)の桑田玖賀媛(クワタノクガヒメ)を近くに使えている舎人(トネリ)たちに見せようと言いました。
「朕(ワレ)はこの婦女(オミナ)を愛したいと思っているが、皇后の妬みが酷くて、会うこともできず、何年も経った。どうしたら、この盛年(サカリナルトシ=成熟した年代)を邪魔されされないで済むだろうか?」
それで歌を歌って問いました。
水底(ミナソコ)ふ 臣の少女を 誰(タレ)養(ヤシナ)はむ
歌の訳(「水底ふ」は枕詞だが詳細は不明)臣下の少女を誰か養ってくれないか?
それで播磨国造の祖先の速待(ハヤマチ)が独り、前に進み出でて歌いました。
みかしほ 播磨速待 岩砕す 畏くとも 吾養はむ
歌の訳(「ミカシホ」は播磨にかかる枕詞)播磨の速待(ハヤマチ)が、(「イワクダス」は「畏く」にかかる枕詞)畏れ多いことですが、わたしが養いましょう。
その日に玖賀媛(クガヒメ)は速待に与えました。翌日の夕方、速待と玖賀媛が家に着きました。しかし玖賀媛は速待に好意を持ちませんでした。強引に寝床に近づきました。すると玖賀媛は言いました。
「わたしめは、寡婦(ヤモメ=独り者)で年をとりました。どうしてあなたの妻になれるでしょうか」
天皇は速待が想いを遂げれば良いなぁ、と思い、玖賀媛に速待を添えて、桑田(=玖賀媛の故郷)へと送りました。すると玖賀媛は発病して道中で死んでしまいました。現在でも玖賀媛の墓があります。
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解説
もうちょっとザックリ
仁徳天皇は宮仕えしている玖賀媛が好きだったが、皇后の磐之媛の嫉妬が酷くて諦めることにした。その玖賀媛を貰ってくれる人を探すと、速待というものが名乗り出た。速待に玖賀媛を妻として与えたのですが、玖賀媛は肉体関係を断固拒否。二人の結婚はダメになった。それで丹波の桑田という玖賀媛の故郷に帰ることになった。その帰るときに天皇の計らいで速待を添えた。だけど途中で玖賀媛は死んでしまった。
悲恋というべきか。
男のわがままのようにも。
ただ、この話は史実ではなくて、そういう「悲恋」の物語があったんじゃないか?と思います。
仁徳天皇は宮仕えしている玖賀媛が好きだったが、皇后の磐之媛の嫉妬が酷くて諦めることにした。その玖賀媛を貰ってくれる人を探すと、速待というものが名乗り出た。速待に玖賀媛を妻として与えたのですが、玖賀媛は肉体関係を断固拒否。二人の結婚はダメになった。それで丹波の桑田という玖賀媛の故郷に帰ることになった。その帰るときに天皇の計らいで速待を添えた。だけど途中で玖賀媛は死んでしまった。
悲恋というべきか。
男のわがままのようにも。
ただ、この話は史実ではなくて、そういう「悲恋」の物語があったんじゃないか?と思います。
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