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仁徳天皇(二十)新羅が朝貢しないので砥田宿禰と賢遺臣と派遣
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現代語訳
即位17年。
新羅の朝貢が来なかった。
秋9月。的臣(クハノオミ)の祖先の砥田宿禰(トダノスクネ)と小泊瀬造(オハツセノミヤツコ)の祖先の賢遺臣(サカノノコリノオミ)を派遣して、朝貢しなかったことをと板出しました。すると新羅人はかしこまって、すぐに貢ぎ物を献上しました。調絹1460匹。および種々雑物(クサワイノモノ=種々雑多なもの)を80槽分です。
新羅の朝貢が来なかった。
秋9月。的臣(クハノオミ)の祖先の砥田宿禰(トダノスクネ)と小泊瀬造(オハツセノミヤツコ)の祖先の賢遺臣(サカノノコリノオミ)を派遣して、朝貢しなかったことをと板出しました。すると新羅人はかしこまって、すぐに貢ぎ物を献上しました。調絹1460匹。および種々雑物(クサワイノモノ=種々雑多なもの)を80槽分です。
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解説
的臣と賢遺臣
この二つの名前は仁徳天皇(十七)高麗国の鉄の的を盾人宿禰が射るに登場します。盾人宿禰が高麗の的を射たことから、盾人宿禰は「的戸田宿禰」という名前をもらい、それがのちに「的臣(イクハノオミ)」という名前になったという話が書かれています。それと、賢遺臣の名前も書かれています。賢遺臣の方は唐突に名前が出ていますが、この二者が並べて書かれるということは共通項があったのでしょう。それが「朝鮮の専門家」ということです。
この二つの名前は仁徳天皇(十七)高麗国の鉄の的を盾人宿禰が射るに登場します。盾人宿禰が高麗の的を射たことから、盾人宿禰は「的戸田宿禰」という名前をもらい、それがのちに「的臣(イクハノオミ)」という名前になったという話が書かれています。それと、賢遺臣の名前も書かれています。賢遺臣の方は唐突に名前が出ていますが、この二者が並べて書かれるということは共通項があったのでしょう。それが「朝鮮の専門家」ということです。
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仁徳天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page16 仁徳天皇(十六)強頸断間と衫子断間
- Page17 仁徳天皇(十七)高麗国の鉄の的を盾人宿禰が射る
- Page18 仁徳天皇(十八)茨田屯倉と治水事業
- Page19 仁徳天皇(十九)桑田玖賀媛と播磨の速待
- Page20 仁徳天皇(二十)新羅が朝貢しないので砥田宿禰と賢遺臣と派遣
- Page21 仁徳天皇(二十一)八田皇女をめぐる、歌のやり取り
- Page22 仁徳天皇(二十二)皇后は怒り、難波から山代、奈良、小楯、倭、葛城から最後は山代の筒城岡へ
- Page23 仁徳天皇(二十三)口持臣は筒城宮で皇后に謁見したが
- Page24 仁徳天皇(二十四)つのさはふ 磐之媛が おほろかに 聞さぬ 末桑の木
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