仁徳天皇(二十)新羅が朝貢しないので砥田宿禰と賢遺臣と派遣

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仁徳天皇(二十)新羅が朝貢しないので砥田宿禰と賢遺臣と派遣

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原文

十七年、新羅不朝貢。秋九月、遣的臣祖砥田宿禰・小泊瀬造祖祖賢遺臣而問闕貢之事。於是、新羅人懼之乃貢獻、調絹一千四百六十匹、及種々雜物、幷八十艘。

現代語訳

即位17年。
新羅の朝貢が来なかった。
秋9月。的臣(クハノオミ)の祖先の砥田宿禰(トダノスクネ)と小泊瀬造(オハツセノミヤツコ)の祖先の賢遺臣(サカノノコリノオミ)を派遣して、朝貢しなかったことをと板出しました。すると新羅人はかしこまって、すぐに貢ぎ物を献上しました。調絹1460匹。および種々雑物(クサワイノモノ=種々雑多なもの)を80槽分です。
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解説

的臣と賢遺臣
この二つの名前は仁徳天皇(十七)高麗国の鉄の的を盾人宿禰が射るに登場します。盾人宿禰が高麗の的を射たことから、盾人宿禰は「的戸田宿禰」という名前をもらい、それがのちに「的臣(イクハノオミ)」という名前になったという話が書かれています。それと、賢遺臣の名前も書かれています。賢遺臣の方は唐突に名前が出ていますが、この二者が並べて書かれるということは共通項があったのでしょう。それが「朝鮮の専門家」ということです。
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