孝徳天皇(日本書紀)

MENU

孝徳天皇(日本書紀)

投稿:2015年12月05日 更新:2015年12月05日
スポンサードリンク

要約

皇極天皇即位4年6月 中大兄皇子・古市大兄と譲り合って、孝徳天皇が即位。大伴長徳連と犬上健部君が即位式で左右に立つ。中大兄が皇太子に。阿倍内麻呂臣が左大臣。蘇我倉山田石川麻呂臣が右大臣。中臣鎌子が内臣に。大化元年に定める(最初の元号)。
孝徳天皇即位1年7月 舒明天皇の娘の間人皇女を皇后に。三韓も貢調を。
即位1年8月 東国の国司に詔「戸籍を作り、税を取る。司法権は中央に。中央に来るときの従者の人数を定める。訴えがあった場合は、よく調査してから中央に報告する。兵器を集めて保管しておく」訴えの文を櫃に入れる制度。男女の法。十師を任命して、寺に所属する僧尼・奴婢・田畑を調べて報告させた。法頭を任命した。
即位1年9月 武器を集める。古人皇子が謀反。吉備笠臣垂が中大兄皇子に密告。中大兄皇子は征討させる。諸国に民の人数を記録させる。公地公民。
即位1年12月 難波長柄豊碕へ遷都。
即位2年1月 改新の詔
即位2年2月 蘇我山田石川麻呂に詔「中国の昔の賢帝に習って鐘匱の制を」。高麗・百済・任那・新羅が貢を。孝徳天皇が子代離宮から帰る。
即位2年3月 東国の国司に詔「8人を東国に送って2人が違反した」。朝廷で東国の使者に詔「役人だからって無茶苦茶しちゃいけない。例としては穂積臣咋・富制臣・巨勢臣紫檀・巨勢徳禰臣・紀麻利耆拕臣など」。中大兄皇子が入部の524口と屯倉181か所を献上。孝徳天皇の詔「葬式も古墳も質素に。古墳の大きさを身分によって規定。嘘つくな。奴婢や夫婦の規定。家の前で死んだからって穢れを祓う費用を請求するな。溺れた人を見たからと言って、知人に穢れを祓う費用を請求するな。家の前でご飯を炊いたからって穢れを祓う費用を請求するな。預けられた馬をパクるな。馬が子を産んでもパクるな。その他諸々」
即位2年8月 詔「家の名前が増えすぎた。祖先の名前で統一するように。田畑の分配方法について」
即位2年9月 新羅が人質を献上。任那の貢調をやめた。孝徳天皇は御蝦蟇行宮。越国のネズミが東に移動。
即位3年1月 朝廷で射の儀式。高麗と新羅が調賦を献上。
即位3年4月 詔「みんなが自分勝手に名前をつけて、増えすぎ」
即位3年 難波小郡を壊して宮を作る。礼法を定める。「午前4時に来て、日の出とともに仕事を。正午には帰る」。倭漢直荒田井比羅夫は水路を間違って掘って難波に引いた。労役した人が困ったので天皇が非を認めて使役をやめた。
即位3年10月 孝徳天皇は有馬温湯へ。
即位3年12月 大晦日に有馬温湯から帰り、武庫行宮に留まる。中大兄皇子の宮に火災。
即位3年 7色の13階の冠を制定。金春秋が来日。献上品を出し、金春秋が人質に。渟足柵を作る。
即位4年1月 賀正の儀式。その夕べは孝徳天皇は難波碕宮に居た。
即位4年2月 三韓に学問層を派遣。阿倍大臣が四天王寺に僧を集め、仏像を塔に設置。古い冠をやめるが左右大臣は古い冠を被る。磐舟柵を作る。
即位5年1月 賀正の儀式。冠十九階を制定。
即位5年3月 阿倍大臣が死亡。蘇我臣日向が蘇我倉山田麻呂が中大兄皇子を殺そうとしていたと讒言。蘇我倉山田麻呂を問い詰めるが答えず、孝徳天皇の前で答えると返す。蘇我興志が自殺。蘇我倉山田麻呂は殺され、関係者も多く死んだ。蘇我倉山田麻呂の没収し中大兄皇子のものとした。蘇我倉山田麻呂の潔白を知って後悔する。中大兄皇子の妻は蘇我倉山田麻呂の娘でショックのあまり死亡。讒言した蘇我日向は島流しに。
即位5年4月 巨勢徳陀古臣が左大臣。大伴長徳連が右大臣。
即位5年5月 三輪君色夫・掃部連角麻呂などを新羅へ派遣。
即位6年1月 味経宮で賀正の礼。
即位6年2月 穴戸国司の草壁連醜経が白い雉を献上。吉兆ととらえた。雉を神輿に乗せて儀式を行った。元号を白雉とする。穴戸の調役を三年免除。
即位6年4月 新羅が貢ぎ物を献上。
即位6年10月 朝廷が直轄地を得たことで墓を失った人に品を与え、荒田井直比羅夫に直轄地の標識を立てさせた。刺繍の仏を作る。漢山口直大口は千仏を作る。倭漢直県・白髮部連鐙・難波吉士胡床に安芸で百済舶を2隻作らせた。
即位7年3月 刺繍の仏などが完成。皇極天皇が仏教儀式を行う。
即位7年6月 百済と新羅が貢ぎ物を献上。
即位7年12月 味経宮で僧尼に一切経を読ませる。孝徳天皇は難波長柄豊碕宮へ。
即位7年 新羅の使者の知万沙飡が唐の服を着ていた。唐に従属した証。巨勢大臣は新羅を征伐するように請願する。
即位8年1月 元旦の儀式の後、大郡宮へ。班田が終わる。
即位8年3月 難波長柄豊碕宮に帰る。
即位8年4月 恵隠を内裏に読んで無量寿経を読ませる。9日間雨が降り、被害があった。この月に戸籍を作った。新羅と百済が貢ぎ物を献上した。
即位8年9月 難波長柄豊碕宮が完成。
即位8年12月 僧尼を内裏に読んで儀式をする。
即位9年5月 大唐に吉士長丹を大使とした121人が派遣される。旻法師の病気を孝徳天皇が見舞う。
即位9年6月 百済・新羅が貢ぎ物を献上。大道を作る。旻法師が死亡。川原寺に安置。
即位9年7月 高田根麻呂の船が鹿児島の近くで座礁、水没して多くが死亡。
即位9年 中大兄皇子が孝徳天皇に大和へ都を映すように提言するが、天皇は拒否。しかし、皇子は皇極天皇・間人皇后たちと倭の飛鳥河辺行宮に移動。役人も従った。孝徳天皇は山碕に宮を作った。
即位10年1月 ネズミが大和の都へ向かった。中臣鎌足連に紫冠を授ける。
即位10年2月 高向史玄理たちが新羅経由で中国の莱州へ。高向玄理は唐で死亡。
即位10年4月 タイの吐火羅国から男2人女2人が日向に流れ着く。吉士長丹が帰国。
即位10年10月 孝徳天皇が病気になると中大兄皇子が皇極天皇・間人皇后と役人を連れて難波宮に行く。孝徳天皇が死亡。
即位10年12月 孝徳天皇を大坂磯長陵を葬る。皇太子たちは倭河辺行宮へ移動。
スポンサードリンク

「孝徳天皇(日本書紀)」のページ一覧

Page1 孝徳天皇(一)出自と即位の経緯
Page2 孝徳天皇(二)人事・大錦冠を中臣鎌子に
Page3 孝徳天皇(三)沙門旻法と高向史玄理を国博士に・金策・天皇と皇祖母尊と皇太子の盟約
Page4 孝徳天皇(四)皇后と二人の妃・明神御宇日本天皇の高麗への詔旨
Page5 孝徳天皇(五)百済と日本の歴史・三輪君東人と馬飼造の派遣
Page6 孝徳天皇(六)神祗を祭り、政を合議するべき
Page7 孝徳天皇(七)東国の国司への詔・戸籍と田畑の検校
Page8 孝徳天皇(八)鐘匱の制
鐘匱の制(カネヒツノセイ)
Page9 孝徳天皇(九)良賤法
良賤法(リョウセンホウ)
Page10 孝徳天皇(十)大寺での僧尼への詔
Page11 孝徳天皇(十一)十師に任じる・来目臣と三輪色夫君と額田部連甥を法頭に
Page12 孝徳天皇(十二)吉備笠臣垂の自首・古人大兄の謀反
Page13 孝徳天皇(十三)公地公民
Page14 孝徳天皇(十四)難波長柄豊碕への遷都
Page15 孝徳天皇(十五)改新之詔のその1
Page16 孝徳天皇(十六)その2畿内の組織運営について
Page17 孝徳天皇(十七)その3戸籍・計帳・班田收授之法
Page18 孝徳天皇(十八)その4絹絁糸綿・馬・兵・仕丁・采女・庸布・庸米
Page19 孝徳天皇(十九)子代離宮に
Page20 孝徳天皇(二十)進善之旌・誹謗之木
Page21 孝徳天皇(二十一)菅子が言うには…黄帝・堯・舜・禹・湯・武王
Page22 孝徳天皇(二十二)雑役の中止・諌めるものの名前
Page23 孝徳天皇(二十三)国民の訴えを解決しよう・朝鮮からの使者
Page24 孝徳天皇(二十四)東国の国司への詔・六人奉法二人違令
Page25 孝徳天皇(二十五)国司は教えた通りにやっているか?
Page26 孝徳天皇(二十六)穂積臣咋と巨勢徳禰臣の罪
Page27 孝徳天皇(二十七)紀麻利耆拕臣の罪
Page28 孝徳天皇(二十八)阿曇連の罪・膳部臣百依の罪・河辺臣磐管と湯麻呂の罪
Page29 孝徳天皇(二十九)大市連・涯田臣・小緑臣・丹波臣・忌部木菓・中臣連正月・羽田臣・田口臣・平群臣の罪
Page30 孝徳天皇(三十)紀麻利耆拕臣・巨勢徳禰臣・穗積咋臣に罰を…
Page31 孝徳天皇(三十一)皇子と皇祖大兄の御名入部
Page32 孝徳天皇(三十二)薄葬の詔
Page33 孝徳天皇(三十三)王と臣たちの葬儀のルール
Page34 孝徳天皇(三十四)正語正見
Page35 孝徳天皇(三十五)第三者の証言があっても裁決はしない・強引に祓除を求める
Page36 孝徳天皇(三十六)参河と尾張での馬詐欺
Page37 孝徳天皇(三十七)市司と要路の津済の渡子の調賦を止め
Page38 孝徳天皇(三十八)聖主の天皇は天に則して
Page39 孝徳天皇(三十九)品部の廃止
Page40 孝徳天皇(四十)百官を設け、位階を明らかにし、官位を授けましょう
Page41 孝徳天皇(四十一)数えた田を民に与えなさい
Page42 孝徳天皇(四十二)高向博士黒麻呂は新羅に人質を献上させる
Page43 孝徳天皇(四十三)朝廷で射(イクイ)を
Page44 孝徳天皇(四十四)みだりに前々處々に名前をつけた
Page45 孝徳天皇(四十五)礼法・職務時間について・比羅夫の水路
Page46 孝徳天皇(四十六)有馬温湯へ行幸・武庫行宮の帰ると皇太子の宮に火災
Page47 孝徳天皇(四十七)七色一十三階之冠
Page48 孝徳天皇(四十八)金春秋を人質に・渟足柵の設置
Page49 孝徳天皇(四十九)即位4年の出来事・四天王寺に霊鷲山の像を
Page50 孝徳天皇(五十)冠十九階
Page51 孝徳天皇(五十一)阿倍大臣の死・蘇我日向の讒言
Page52 孝徳天皇(五十二)蘇我倉山田麻呂は山田寺で自殺
Page53 孝徳天皇(五十三)事後処理・14人の斬首と9人の絞首
Page54 孝徳天皇(五十四)蘇我日向の隠流・蘇我造媛と堅塩
Page55 孝徳天皇(五十五)人事・沙飡金多遂を人質に
Page56 孝徳天皇(五十六)穴戸国司の草壁連醜経が白い雉子を献上
Page57 孝徳天皇(五十七)雉子の輿・賀を奉る
Page58 孝徳天皇(五十八)白雉の由来
Page59 孝徳天皇(五十九)丈六の繡像と侠侍と八部・千仏の像
Page60 孝徳天皇(六十)難波長柄豊碕宮
Page61 孝徳天皇(六十一)知万沙飡は唐の国の服を着て
Page62 孝徳天皇(六十二)班田が終わる
Page63 孝徳天皇(六十三)無量寿経と論議者と作聴衆・隣保の規定
Page64 孝徳天皇(六十四)大使の吉士長丹の遣唐使
Page65 孝徳天皇(六十五)旻法師の命の終わりと仏像
Page66 孝徳天皇(六十六)薩麻の曲と竹嶋の間で遣唐使の船が難破
Page67 孝徳天皇(六十七)皇太子と皇極上皇と間人皇后は孝徳天皇を残して大和へ
Page68 孝徳天皇(六十八)中臣鎌足に紫冠・新羅道で遣唐使を送る
Page69 孝徳天皇(六十九)吐火羅国の男女と舍衞の女が漂着・吉士長丹の帰国
Page70 孝徳天皇(七十)孝徳天皇の死と殯・倭へ遷都
スポンサードリンク