孝徳天皇(七十)孝徳天皇の死と殯・倭へ遷都

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孝徳天皇(七十)孝徳天皇の死と殯・倭へ遷都

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原文

冬十月癸卯朔、皇太子、聞天皇病疾、乃奉皇祖母尊・間人皇后幷率皇弟公卿等赴難波宮。壬子、天皇崩于正寢。仍起殯於南庭、以小山上百舌鳥土師連土德、主殯宮之事。

十二月壬寅朔己酉、葬于大坂磯長陵。是日、皇太子奉皇祖母尊遷居倭河邊行宮。老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也。是歲、高麗・百濟・新羅並遣使奉弔。

現代語訳

(即位10年)冬10月1日。皇太子は天皇が病気になったと聞いて、すぐに皇祖母尊(スメミオヤノミコト=皇極天皇=皇極上皇)と間人皇后を奉じて、合わせて、皇弟(スメイロド)・公卿(マヘツキミ=臣下)たちを率いて、難波宮に行きました。
10月10日。天皇は正寢(オオトノ=寝る宮殿)で崩御しました。殯(モガリヤ=ここでは殯をする小屋)を南庭(オオバ)に立てました。小山上(ショウセンジョウ)の百舌鳥土師連土徳(モズノハジノムラジツチトコ)を殯宮の仕事の主任にしました。

12月8日。大坂磯長陵(オオサカノシナガノミサザキ)に葬りました。この日、皇太子は皇祖母尊(スメミオヤノミコト)を奉じて、倭河辺行宮(ヤマトノカワラノカリミヤ)に移って居ました。老者(オイヒト=老人)は語って言いました。
「鼠(ネズミ)が倭の都に向かったのは遷都する兆しだったのか」
この年、高麗・百済・新羅は一緒に使者を派遣して弔いを奉じました。
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解説

孝徳天皇が死にました。
難波宮に置き去りにされ、憤死した、というのが一般的な見方です。

10月10日に死亡し、12月8日には葬る。これはかなり殯の期間が短いです。殯ってのは、死んだ人間を仮に安置して、そこで白骨化するのを待つ期間です。これが長いということは、「できれば生き返ってほしい」という気持ちがあり、短いということは「さっさと成仏してほしい」という意味がある、という見方もできます。

鼠が向かう方向に何かしらの兆しがあるという記事がよく見られます。
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