スポンサードリンク
孝徳天皇(六十六)薩麻の曲と竹嶋の間で遣唐使の船が難破
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
秋七月、被遣大唐使人高田根麻呂等、於薩麻之曲・竹嶋之間合船沒死。唯有五人、繋胸一板流遇竹嶋、不知所計。五人之中、門部金、採竹爲筏泊于神嶋。凡此五人、經六日六夜而全不食飯。於是、褒美金進位給祿。
現代語訳
(即位9年)秋7月。大唐(モロコシ)に派遣された使者の高田根麻呂(タカタノネマロ)たちは、薩麻(サツマ)の曲(クマ=隈=大隅半島?)・竹嶋(タカシマ=鹿児島の竹島)の間に、船が座礁して、水没して死んでしまいました。ただ5人だけが生き残って、胸に板を付けて、竹嶋に流れつきました。どうしようもありませんでした。5人の中に門部金(カドベノカネ)は竹を採って、筏(イカダ)を作って、神嶋(シトケシマ=屋久島の西の上甑島?備前西南海の神島?)に停泊しました。この5人は6日6夜が経っても、飯を食べられませんでした。それで金を褒めて、位を進めて禄を与えました。
スポンサードリンク
解説
遣唐使の船が鹿児島に座礁?
ということは、遣唐使の船は朝鮮半島を経由していなかったということになります。瀬戸内海から関門海峡を抜けて、朝鮮半島に行くならば鹿児島に流れ着くはずがない。最初から、鹿児島→沖縄→台湾→中国という経路が一般的だったのでしょう。この経路は各都市が発展していて、そこで食料の調達も可能だった。
そう考えないと不自然です。
ということは、遣唐使の船は朝鮮半島を経由していなかったということになります。瀬戸内海から関門海峡を抜けて、朝鮮半島に行くならば鹿児島に流れ着くはずがない。最初から、鹿児島→沖縄→台湾→中国という経路が一般的だったのでしょう。この経路は各都市が発展していて、そこで食料の調達も可能だった。
そう考えないと不自然です。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
孝徳天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page62 孝徳天皇(六十二)班田が終わる
- Page63 孝徳天皇(六十三)無量寿経と論議者と作聴衆・隣保の規定
- Page64 孝徳天皇(六十四)大使の吉士長丹の遣唐使
- Page65 孝徳天皇(六十五)旻法師の命の終わりと仏像
- Page66 孝徳天皇(六十六)薩麻の曲と竹嶋の間で遣唐使の船が難破
- Page67 孝徳天皇(六十七)皇太子と皇極上皇と間人皇后は孝徳天皇を残して大和へ
- Page68 孝徳天皇(六十八)中臣鎌足に紫冠・新羅道で遣唐使を送る
- Page69 孝徳天皇(六十九)吐火羅国の男女と舍衞の女が漂着・吉士長丹の帰国
- Page70 孝徳天皇(七十)孝徳天皇の死と殯・倭へ遷都
スポンサードリンク