孝徳天皇(六十九)吐火羅国の男女と舍衞の女が漂着・吉士長丹の帰国

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孝徳天皇(六十九)吐火羅国の男女と舍衞の女が漂着・吉士長丹の帰国

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原文

夏四月、吐火羅国男二人・女二人・舍衞女一人、被風流來于日向。秋七月甲戌朔丁酉、西海使吉士長丹等、共百濟・新羅送使、泊于筑紫。是月、褒美西海使等奉對唐国天子多得文書寶物、授小山上大使吉士長丹以少花下、賜封二百戸、賜姓爲吳氏。授小乙上副使吉士駒以小山上。

現代語訳

(即位10年)夏4月。吐火羅国(トカラノクニ=タイの王国のドヴァラヴァティ)から男2人・女2人、舍衞(シャエ=インドの舍衞城?)の女1人が、暴風に会って、日向に流れて来ました。
秋7月24日。西海(ニシノミチ)の使者の吉士長丹(キシノナガニ)たちは百済・新羅の送りの使者と共に筑紫に泊まりました。

この月に西海の使者たちが唐国(モロコシ)の天子に対峙して、多くの文書・宝物を得たので、褒めて、小山上(ショウセンジョウ)の大使の吉士長丹に少花下(ショウセンゲ)を授けました。封(ヘヒト)を200戸与えました。姓を与えて、呉氏としました。小乙上(ショウオツジョウ)の副使の吉士駒(キシノコマ)に小山上を授けました。
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解説

吉士長丹が遣唐使として唐に向かったのは即位4年5月。この時は一艘に月120人ほどが乗って2艘が中国に向かって出発したのですが、1艘が鹿児島で難破。

この時はどの海路を通ったのかは書いてないのですが、このページでは「西海」と書いてありますので、2艘ともが鹿児島→沖縄→台湾→中国という経路だったんでしょう。これとは別に即位5年2月に高向史玄理をリーダーにして「新羅道」経由で遣唐使を送っていますが、ほとんど死んで帰って来ませんでした。


またこのページでは、東南アジアの国の人間が暴風にあったとはいえ、日本に流れ着いています。ということは、沖縄→台湾→中国というルートは比較的、いや、朝鮮経由よりもかなり安全だったんじゃないでしょうか。

トカラ国から流されて来た人は斉明天皇の時代にも流れてきています。そのページでは「覩貨邏国」とありますが、同じ国だと思われます。斉明天皇の時代には「奄美大島に一旦流れてきてから、筑紫にたどり着いた」とあります。おそらくこのページのトカラ人と同じ船でやってきて、別れ別れになったのだと思われます。
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