欽明天皇(日本書紀)
投稿:2015年08月14日 更新:2015年08月14日スポンサードリンク
要約
欽明天皇即位以前 秦大津父を探せと夢にお告げがあるので探すと、山背国の紀郡の深草里で見つかる。秦大津父が言うには「山で狼が嚙みつき血で濡れているのを洗ってやった。すると狼に襲われなかった」と答えた。秦大津父は大蔵省に任命された。
宣化天皇即位4年10月 宣化天皇が崩御。春日山田皇女(安閑天皇の皇后)に執務を譲るが、さらに譲られた。
宣化天皇即位4年12月 結局、欽明天皇が即位。
欽明天皇即位1年1月 役人に皇后を立ててくれと請願される。石姫(=宣化天皇の娘)を皇后に。
即位1年2月 百済の己知部が帰化。
即位1年3月 蝦夷・隼人が帰化。
即位1年7月 倭国の磯城郡の磯城嶋に遷都(磯城嶋金刺宮)。
即位1年8月 高麗・百済・新羅・任那が献上する。秦人・漢人が帰化したもので戸籍を作る。
即位1年9月 難波祝津宮に行幸。新羅を征伐しようとするが止められる。大伴大連金村は「任那を滅ぼした!」と批判されて朝廷に出なくなる。
即位2年3月 5人の妃を召し入れる。
即位2年4月 天皇が百済の聖明王に「任那復興」を命じる。
即位2年7月 安羅の日本府と新羅が計略を交わしていると聞いて、百済が使者を派遣する。
即位3年7月 百済が使者を派遣して報告する。
即位4年4月 百済の使者が帰国。
即位4年9月 百済の聖明王が外国の宝物と奴隷2口を献上。
即位4年11月 津守が百済に詔を持っていく。任那再興をせっつく。任那と日本府の執事を呼び寄せて尋ねると「正月過ぎてから!」と答えられる。
即位5年1月 もう一度聞くと、「祭りが終わってから!」と答えられる。もう一度招集すると、位の低い人が来て謀議にならなかった。
即位5年2月 百済は任那に使者を派遣して日本府とともに任那再興を話し合う。百済は河内直を批判。招集しても集まらない。
即位5年3月 百済が日本に任那と日本府の怠慢と任那の再建は難しいことを伝える。
即位5年10月 百済の使者の奈率得文・奈率奇麻が帰国。
即位5年11月 百済が使者を派遣して日本府と任那の役人を招集して、任那再興を話し合う。
即位5年12月 佐渡島に粛慎人(=蝦夷)がやってきて居座る。揉める。
即位6年3月 膳臣巴提便を使者として百済に派遣。
即位6年5月 百済が使者を派遣して票を献上する。
即位6年9月 百済が使者を任那に派遣した。呉の財宝を日本府と任那の役人に与える。百済が仏像を造る。
即位6年11月 膳臣巴提便が帰国。巴提便が自分の子供を食べた虎を殺す。この年、高麗に乱があった。
即位7年1月 百済の使者が帰国。
即位7年6月 百済が使者を派遣して貢ぎ物を献上。
即位7年7月 今来郡の川原民直宮で良馬を見つける。この年、高麗に乱が。
即位8年4月 百済は使者を派遣して救援を求める。
即位9年1月 百済の使者の前部德率眞慕宣文が帰国を願う。救援を確約する。
即位9年4月 救援の約束を得たが、いつ救援があるのか分からない。高麗と戦争をした時に安羅国と日本府が高麗の侵略を手引きしたと、捕虜が言った。安羅国と日本府の罪を問うて欲しいと百済の使者が述べた。
即位9年6月 日本が百済に任那と話し合って防御しなさいと詔する。
即位9年閏7月 百済の使者の掠葉礼が帰国。
即位9年10月 百済に370人を派遣し、城を築く。
即位10年6月 将德久貴・固德馬次文が帰国を願う。移那斯・麻都が高麗と繋がっていることについて調べると約束し、百済救援郡は保留。
即位11年2月 百済に使者を派遣し、状況を説明する大使を派遣するよう命ずる。また弓を30具与えた。
即位11年4月 日本に帰ろうとする人に聖明王は詔に従うことを誓い、高麗の奴隷を献上した。
即位12年3月 麦の種子を百済に与える。
即位13年4月 箭田珠勝大兄皇子が亡くなる。
即位13年5月 百済・加羅・安羅が新羅が高麗と結んで三國を滅ぼそうとしていると伝える。
即位13年10月 聖明王が仏像や経典を献上。天皇は喜ぶ。蘇我稲目は歓迎するが、物部尾輿・中臣鎌子は否定する。蘇我稲目に仏像が与えられ、信奉するが、疫病が起き、仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼かれた。
即位14年1月 百済が救援軍を要請。
即位14年5月 河内で音が仏教の音楽が聞こえるので調べると海の中にクスの木を発見した。それで仏像を作り、吉野寺に安置した。
即位14年6月 百済に馬や船や武器を与えた。
即位14年7月 樟勾宮へ行幸。蘇我稲目が王辰爾に船の数を数えて記録させ、税金を取った。王辰爾は船連の祖先となった。
即位14年8月 高麗と新羅が「百済・任那が日本と通じて援軍を得ようとしている」と先手を打とうとしているので、百済・任那が援軍を求めた。朝鮮をうまく治めていた的臣が亡くなり、代理の人物を求め、兵器を求めた。
即位14年10月 百済の余昌が高麗の百合野塞にいると、高麗が攻めてきたが、追い返した。
即位15年1月 渟中倉太珠敷尊(のちの敏達天皇)を皇太子に。百済は筑紫に使者を派遣して「1月に臣下が来ると言っていたが、本当に来るのか」と問い合わせる。
即位15年2月 百済が日本に派遣していた人材を交代させる。
即位15年3月 百済の使者の中部木刕施徳文次たちが帰国。
即位15年5月 内臣は舟師を連れて百済へ。
即位15年12月 百済が日本に使者を派遣して、「新羅を征伐したいので、日本の軍を率いて新羅を攻めたら勝った」と報告。高麗も征伐したいのでもっと軍を要請した。余昌は新羅を征伐しようと話し合うが、老人に止められる。しかし無視して進軍。父親の聖明王が心配して後を追った。そこを新羅は攻め、聖明王を捕らえ、斬首した。余昌は新羅に囲まれた。筑紫国造という弓の名手によってどうにか逃げた。鞍橋君と名付けた。新羅は百済を滅ぼそうとしたが、日本を恐れて途中で止めた。
即位16年2月 余昌が恵を派遣して、聖明王の死を報告。蘇我が『建邦之神を祀れば国は安定する。百済はこの神を捨てた』と恵に言う。
即位16年7月 吉備の郡に白猪屯倉を設置。
即位16年8月 余昌が出家して死んだ父(聖明王)に奉仕しようと言い出すが、臣下たちに止められ、思いとどまる。
即位17年1月 恵が帰国したいと申し出たので、武器と軍と部下をつけて帰国させた。
即位17年7月 蘇我稲目たちを備前の児島郡に派遣して屯倉を設置。葛城山田直端子を田令に。
即位17年10月 蘇我稲目たちを倭国の高市郡に派遣して、韓人大身狹屯倉と高麗人小身狹屯倉を設置。紀国に海部屯倉を設置。
即位18年3月 余昌が百済の王(威德王)に。
即位21年9月 新羅が貢ぎ物を献上した。使者に多くの返礼をしたら使者が喜んで、もっと位の高い人を使者にすべきと本国に伝える。
即位22年 新羅は位の高い人を使者にすると、日本は返礼を少なくした。それで怒って帰国した。次の使者が前回に届けなかった貢ぎ物を届けると、百済より下の扱いだったために、怒って穴門に帰った。日本は穴門館を修繕した。その修繕の技術者が使者に「失礼なお前らを問い攻めるための施設だ」と言ったために使者は急いで帰って、新羅は城を築いて日本に備えた。
即位23年1月 新羅は任那の官家を滅ぼした。
即位23年6月 天皇が新羅を批判する詔を出す。馬飼首歌依が無実の罪で死ぬ。死ぬ前の呪いの言葉で宮殿が火災に。朝廷はその子供を捉えて殺そうとするが、母の嘆願で神奴にした。
即位23年7月 新羅の使者が、新羅が任那を滅ぼしたことを恥ずかしく思い、帰国せずそのまま日本に住んだ。新羅へ兵を進め、最初は勝つが、白旗を掲げる新羅軍に川辺臣瓊缶が同じように白旗を上げて突っ込んでいくと、新羅軍は川辺臣が投稿するものと思って、粘った。すると先鋒が負けて、徐々に川辺臣は負けて捕まり、「自分の命と婦人とどちらが大事か?」と問われて「自分の命」と答えて、婦人を眼の前で新羅の将に犯された。一方、調吉士伊企儺は最後まで抵抗して殺された。
即位23年8月 高麗を征伐。様々な財宝を手に入れる。
即位23年11月 新羅が使者を派遣して献上した。使者や百姓は帰国しなかった。
即位26年5月 高麗人の頭霧唎耶陛が筑紫で帰化。
即位28年 洪水があり、人食いがあった。穀物を融通して救援し合いました。
即位30年1月 田部の戸籍を検定するよう詔を出す。
即位30年4月 胆津が戸籍を調べて田戸を作る。胆津を白猪史に。
即位31年3月 蘇我稲目が亡くなる。
即位31年4月 泊瀬柴籬宮に行幸。江渟臣裾代が「高麗の使者が暴風にあって困っている」と密告する。天皇は助けろと命ずる。
即位31年5月 高麗の使者と宴会をする。高麗は道君を天皇だと思っていて献上品を出していた。献上品を探し出し返却させた。難波から船を琵琶湖まで持ってきて飾り立てて、高麗の使者を歓迎して、宴会をした。
即位32年3月 坂田耳子郎君を新羅に派遣して任那を滅ぼした理由を問う。高麗の献上品が届いていない。
即位32年4月 欽明天皇が病気になり、「新羅の征伐」と「任那の再建」を遺言として残した。欽明天皇が崩御。
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