蘇我稲目の死・江渟臣裾代の報告・高麗の船の座礁

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欽明天皇(八十九)蘇我稲目の死・江渟臣裾代の報告・高麗の船の座礁

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原文

卅一年春三月甲申朔、蘇我大臣稻目宿禰、薨。

夏四月甲申朔乙酉、幸泊瀬柴籬宮。越人・江渟臣裾代、詣京奏曰「高麗使人、辛苦風浪、迷失浦津、任水漂流、忽到着岸。郡司隱匿、故臣顯奏。」詔曰「朕承帝業、若干年。高麗迷路、始到越岸。雖苦漂溺、尚全性命。豈非徽猷廣被・至德魏々・仁化傍通・洪恩蕩々者哉。有司、宜於山城国相樂郡、起館淨治、厚相資養。」是月、乘輿至自泊瀬柴籬宮、遣東漢氏直糠兒・葛城直難波、迎召高麗使人。

現代語訳

即位31年春3月1日。蘇我大臣稲目宿禰(ソガノオオオミイナメノスクネ)が亡くなりました。

夏4月2日。泊瀬柴籬宮(ハツセノシバカキノミヤ=奈良県桜井市初瀬だが詳細は不明)に欽明天皇が行きました。越人(コシノヒト=北陸あたりの人)の江渟臣裾代(エヌノオミモシロ)が京(ミヤコ=ここでは大和のこと)に詣でて言いました。
「高麗の使者は風浪(カゼナミ)に辛苦(タシナミ=苦しんで)して、迷って浦津(トマリ=停泊する港)を失いました。それで水(ミズ=ここでは海流)のままに漂流して、たちまち岸に到着しました。郡司(コオチノミヤツコ)はこれを隠匿しました。わたしめが、これを明らかにしたいと申し上げに来たのです」
詔(ミコトノリ)して言いました。
「朕(ワレ)は帝業(アマツヒツギ)を受け継いで、若干の年を経た。高麗は路に迷って、初めて越の国の岸に到着した。漂い、溺れ、苦しんだだろうに、なお性命(ミイノチ)を健全に保っている。良い方策を広く知らしめて、高い徳は盛んになり、仁徳の教えを広め、通わせて、天皇の大きな恩(メグミ=愛)を遠く広がっていくものではないだろうか! 有司(ツカサ=役人のこと)よ! 山背国の相楽郡(サガラカノコオリ)に館(ムロツミ)を立てて、清め祓い、厚く助けて養うのだ」

この月に乘輿(スメラミコト天皇が乗る乗り物)は泊瀬柴籬宮(ハツセノシバカキノミヤ)から戻りました。東漢氏直糠兒(ヤマトノアヤノウジノアタイアラコ)・葛城直難波(カツラキノアタイナニワ)を派遣して高麗の使者を迎えに呼ばせました。
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解説

個人的な見解
高麗は越へと迷い込んだ。これを越の郡司は隠匿した。なぜでしょうか? そもそも高麗はなぜ越に迷い込んだのか? 無論、海流に流されのかもしれません。そう考えたほうが自然ではあるんですよ。

もしかして高麗は東北に行こうとしていたんじゃないか?と思っています。東北には蝦夷がいて、実は蝦夷の文化はそこそこ大きかった。そうでないと大和は発展しないのです。出雲も同様だったんじゃないでしょうか。高麗は東北の蝦夷と交易をしようとした。

しかし、これは困る。

日本は貿易経済圏を運営するグループだった。勝手に高麗→蝦夷で貿易をしてもらっては、大和朝廷という組織が破綻しかねない。記事では偶然、流されて越に漂着したとあるけども、実際には高麗と蝦夷で交易があり、船の行き交いは頻繁だった。そこに越の郡司も関わっていた。ようは賄賂でももらっていたのでしょう。だから高麗の船を隠匿した。
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