欽明天皇の崩御と遺言・任那の再建

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欽明天皇(九十二)欽明天皇の崩御と遺言・任那の再建

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原文

卅二年春三月戊申朔壬子、遣坂田耳子郎君、使於新羅、問任那滅由。是月、高麗、獻物幷表、未得呈奏、經歷數旬、占待良日。夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫。皇太子向外不在、驛馬召到、引入臥內、執其手詔曰「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」是月、天皇遂崩于內寢、時年若干。

現代語訳

即位32年春3月5日。坂田耳子郎君(サカタノミミコノイラツキミ)を派遣して新羅に使者として送って、任那を滅ぼした理由を問いました。

この月、高麗の献上品と表(フミ)が、いまだに献上できていない。数旬(アマタイ=旬は10日)を経て、良い日を占って待ちました。

夏4月15日。欽明天皇は病気で寝込んでしまいました。皇太子は外に出なくなりました。駅馬を呼び寄せて、皇太子を呼び、臥内(オオトノ=天皇の寝室)に引き入れて、その手を取って詔(ミコトノリ)して言いました。
「朕(ワレ)は病気が重い。後の事をお前に引き継がせよう。お前は新羅を打ち、任那を再建するべきだ。また任那と夫婦となって、昔のようになれば、死んでも恨むことは無いだろう」

この月に天皇は内寝(オオトノ=寝室)で崩御しました。そのとき、年は若干。
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解説

皇太子の行動
日本人は病気のことも「穢れ」と考えていました。病気が感染するように穢れは感染し、その感染した人を殺す。そういう恐ろしいものでした。だから皇太子は、家から出なくなったんじゃ無いかと。それで、いよいよ欽明天皇が死ぬってなって、やっと臨終に立会った。

すると新羅を征伐して、任那を再建してくれよ。任那とは夫婦みたいなものだ、と。

日本にとって任那というのはパートナーだったのでしょう。理由はいくつか考えられます。魏志倭人伝によれば朝鮮半島の南には倭人が住んでいたとあります。倭人は「日本人」という意味にも取れなくもないんですが、朝鮮人と日本人の顔なんてたいした違いはありません。倭人というのはおそらく「風習」が「倭」だったから「倭人」だったのでしょう。つまり倭人ってのは「稲作」を中心とした文化を持った人って意味ではないかと思うのです。

実際、朝鮮半島の南部では水耕稲作が可能でした。地理的には九州の北ですからね。しかし新羅や百済となると水耕稲作はできない。大和朝廷は米を税として徴収する米中心の組織でしたから、百済や新羅より任那の方が、親近感を持っていて当然でした。それに、この時代には日本人の墓も朝鮮半島にあったのでしょう。欽明天皇が任那を取り戻したい、と考えるのは「領土」とか「名誉」だけではなく、「先祖の霊や仲間を守る」という意味もあったのでしょう。

ま、それにしては大和朝廷は任那救済、再建に積極的で無さすぎでしたけどね。そこのところは別の理由があったのだと思いますけど。
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