胆津による白猪田部の検定

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欽明天皇(八十八)胆津による白猪田部の検定

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原文

卅年春正月辛卯朔、詔曰「量置田部、其來尚矣。年甫十餘、脱籍兔課者衆。宜遣膽津(膽津者、王辰爾之甥)也檢定白猪田部丁籍。」

夏四月、膽津、檢閲白猪田部丁者依詔定籍、果成田戸。天皇、嘉膽津定籍之功、賜姓爲白猪史、尋拜田令爲瑞子之副。瑞子、見上。

現代語訳

即位30年春1月1日。欽明天皇は詔(ミコトノリ)して言いました。
「田部(タベ=直轄地を交錯する部民)を量(ハカ=人数を数えたこと?)って置いたが、その土地に田部ではない民がやって来るようになってから長い時間が経った。10歳になったのに籍(ナノフミタ=戸籍)から漏れて、課(エツキ=課役=労働)から逃れている者が多い。胆津(イツ)を派遣して…
胆津は王辰爾(オウジンニ)の甥です。

白猪田部の丁(ヨホロ=課役を課せられる年齢の人のこと)の籍(フミタ=戸籍)を検定(カムガエサダメ=調査する)するべきだ」

夏4月。胆津(イツ)は白猪田部の丁者(ヨホロ)を検(カムガエ=調査)しに見て、詔のままに籍を定めました。結果、田戸(タヘ=従来よりも詳細な田部の戸籍)を成しました。天皇は胆津が籍を定めた功績を喜んで、姓を与えて白猪史(シライノフビト)としました。すぐに田令(タツカイ=中央から来た田部の監督の役人)に参って、端子(ミツコ=葛城山田直端子のこと)を副(スケ)としました。
端子はすでに上で見ています。
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解説

ここでの田部は白猪屯倉という直轄地を耕す民のこと。白猪屯倉は欽明天皇16年に設置したもの。白猪屯倉は吉備(現在の岡山)に5つ設置したとあります。これは吉備という強国が大和朝廷に完全に帰属したという意味でしょう。

端子
欽明天皇17年7月の記事によると、吉備の児嶋郡に屯倉を設置して、そこに葛城山田直端子を田令としたとあります。端子はこの端子です。児島郡の屯倉で田令だった端子を「副田令」として呼んだわけです。屯倉の運営を知っていることが要因かもしれません。

史と胆津について
胆津は王辰爾の甥。それで王辰爾ってのは欽明天皇14年7月に「船の数を数えて、記録した」ことから「船史」となった人物です。

日本人は穢れを嫌いました。穢れたものの代表が「屍体」。動物の屍体から皮を剥いで作ったのが「筆」です。だから日本人は筆を嫌った。しかし記録するには筆が必要です。そこで穢れという概念のない朝鮮人を連れてきて、船の数を数えさせた。船の数が分かれば税金をかけることができます。

そして胆津も当然ながら、日本人ではなく、穢れという概念がなかったから筆を使って記録することが出来た。だから戸籍管理にうってつけで、駆り出されたのでしょう。戸籍管理を細かくすれば、細かく税を徴収できます。日本はこの辺りから、「筆」の価値を本気で重んじるようになり、「穢れ」という概念の無い「仏教」を必要としはじめた。もはや国家運営には仏教がなくてはならない…というわけです。

ちなみに王辰爾を推薦したのが蘇我稲目。後に仏教を日本に取り入れるときに中心となる蘇我馬子の父です。
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