王辰爾を船史とした

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欽明天皇(五十七)王辰爾を船史とした

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原文

秋七月辛酉朔甲子、幸樟勾宮。蘇我大臣稻目宿禰、奉勅遣王辰爾、數錄船賦。卽以王辰爾爲船長、因賜姓爲船史。今船連之先也。

現代語訳

(即位14年)秋7月4日。欽明天皇は樟勾宮へと行きました。蘇我大臣稲目宿禰(ソガノオオオミイナメノスクネ)は勅(ミコトノリ)をうけたまわって、王辰爾(オウジンニ)を派遣して、船の賊(ミツキ=船の税金のこと)を数えて録(シル)しました。王辰爾を船長としました。それで姓(カバネ)を与えて、船史(フネノフビト)としました。現在の船連の祖先です。

解説

王辰爾
続日本紀には「王辰爾の祖先は百済の貴須王の孫の辰孫王で、応神天皇の時代に日本にやって来て、太阿郎王は仁徳天皇に仕えた」とあったり、

「船氏王後墓誌銘」にも名前がみられます。この船氏王後墓誌銘は船氏の「船王後(フネノオウゴ)」の墓の銘なんですが、この「王後」が王辰爾の孫としています。

まぁ、本当に応神天皇の時代にやって来たかは怪しいと言われています。出自を偽るのは別に珍しいことではありません。
船の専門家となった意味
三国史記を読む限り、朝鮮半島は「大陸人」であって海とは関係無い。神話にもほとんど海が出てきません。百済人は海には弱いはず。百済は日本と交易をする中で船の専門家になった、とも考え難い。まぁ、百済人は大陸由来ではなく日本人が朝鮮半島に渡っただけ、というならば船の技術を持っていても全くおかしくないのですが。

ここで百済人を船長にした意味ってのは別のところにあるのだと思います。日本人は「筆」を使え無い。筆は動物の毛からできていて、動物の屍体は穢れており、日本人はその穢れを嫌うからです。しかし、船の数を把握し、記しておくには「筆」を使わないわけにはいかない。そこで穢れの概念を持たない百済人を使用するわけです。

王辰爾は筆を使い、船の数を記しました。なぜか? 「税金をかけるため」です。船の数が分かれば、税金をかけやすい。これまでに蘇我稲目は仏教を取り入れるように進言してきましたが、それは阻まれました。しかし、仏教は魅力的な存在です。穢れという概念がないから、兵隊を自前で持つことができます。日本人は穢れを嫌うために軍備を嫌うのです。そして筆を使い、文字を記述することが出来るようになります。

蘇我稲目は、筆を使うことで、船を管理し、税金を徴収できる、ということを提案して、古来の神道ではなく仏教を取り入れるべきだと主張したのではないでしょうか。
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