スポンサードリンク
欽明天皇(五十四)百済は漢城と平壌を捨て、新羅が漢城に入る
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
現代語訳
(即位13年)この年、百済は漢城と平壌を捨てました。新羅はそれで漢城に入りました。今の新羅の牛頭方(ゴヅホウ=江原道春川?黄海道金川郡?)・尼弥方(ニミホウ=地名だが未詳)です。
この土地の名は未詳です。
解説
三国史記の新羅本記によると、真興王34年7月に「百済の東北部を取り、新州をおいた」とあります。ちゃんとリンクしているわけです。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
欽明天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page50 欽明天皇(五十)箭田珠勝大兄皇子の死・高麗と新羅の通和
- Page51 欽明天皇(五十一)釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干卷を献上
- Page52 欽明天皇(五十二)蘇我稲目は仏を手にいれる・物部尾輿と中臣連鎌子は反対する
- Page53 欽明天皇(五十三)疫病の発生・難波の堀江に仏像を捨て、寺を焼く
- Page54 欽明天皇(五十四)百済は漢城と平壌を捨て、新羅が漢城に入る
- Page55 欽明天皇(五十五)茅渟の海の梵音・吉野寺の楠木の仏像
- Page56 欽明天皇(五十六)医博士・易博士・暦博士の交代
- Page57 欽明天皇(五十七)王辰爾を船史とした
- Page58 欽明天皇(五十八)新羅と狛国の謀議・救援・的臣の代理要請
スポンサードリンク