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欽明天皇(五十一)釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干卷を献上
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冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝国流通畿內。果佛所記我法東流。」
現代語訳
(即位13年)冬10月。百済の聖明王(セイメイオウ)…
は西部姫氏達率怒唎斯致契(セイホウキシダチソチヌリシチケイ)たちを派遣して釈迦仏(シャカホトケ)の金銅像一軀(カネノミカタヒトハシラ)・幡蓋若干(ハタキヌガサソコラ)・経論若干卷(キョウロンソコラノマキ)を献上しました。別に表(フミ)で、流通(ヒトニアマネハ)して、礼拝(ミズカラオガム)し、功徳を褒めて言いました。
「この法(ミノリ)は諸々の法の中で最も優れています。理解しずらく、入りづらいものです。周公・孔子も理解することはできませんでした。この法はよく出来ていて、量もなく、限りも無く、福徳果報(イキオイムクイ)を成し、優れた菩提(ボダイ=煩悩・執着を捨てて解脱すること)を成します。例えば、ある人が随意宝(ココロノママナルタカラ=思い通りになる不思議な宝=如意宝珠のこと)を手に入れて、必要な場所で、全て心のままになるようなもので、この妙法の宝も同じなのです。祈り願えば、心のままになり、足りないものなどありません。それは遠く天竺(テンジク=インドのこと)からこの三韓にたどり着くまでに、教(ミノリ)に従い奉り、尊ばれ敬われなかったことなどありません。それで百済の王の臣の明(メイ)は謹んで陪臣(ハベルマヘツノキミ)の怒唎斯致契(ヌリシチケイ)を派遣して、帝国(ミカド)に伝え奉ろうと、畿内(ウチツクニ)に流通(アマネハサム)したのです。仏が『我が法は東に伝わるだろう』と記したことを果たしたのです」
またの名を聖王(セイオウ)といいます。
は西部姫氏達率怒唎斯致契(セイホウキシダチソチヌリシチケイ)たちを派遣して釈迦仏(シャカホトケ)の金銅像一軀(カネノミカタヒトハシラ)・幡蓋若干(ハタキヌガサソコラ)・経論若干卷(キョウロンソコラノマキ)を献上しました。別に表(フミ)で、流通(ヒトニアマネハ)して、礼拝(ミズカラオガム)し、功徳を褒めて言いました。
「この法(ミノリ)は諸々の法の中で最も優れています。理解しずらく、入りづらいものです。周公・孔子も理解することはできませんでした。この法はよく出来ていて、量もなく、限りも無く、福徳果報(イキオイムクイ)を成し、優れた菩提(ボダイ=煩悩・執着を捨てて解脱すること)を成します。例えば、ある人が随意宝(ココロノママナルタカラ=思い通りになる不思議な宝=如意宝珠のこと)を手に入れて、必要な場所で、全て心のままになるようなもので、この妙法の宝も同じなのです。祈り願えば、心のままになり、足りないものなどありません。それは遠く天竺(テンジク=インドのこと)からこの三韓にたどり着くまでに、教(ミノリ)に従い奉り、尊ばれ敬われなかったことなどありません。それで百済の王の臣の明(メイ)は謹んで陪臣(ハベルマヘツノキミ)の怒唎斯致契(ヌリシチケイ)を派遣して、帝国(ミカド)に伝え奉ろうと、畿内(ウチツクニ)に流通(アマネハサム)したのです。仏が『我が法は東に伝わるだろう』と記したことを果たしたのです」
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解説
儒教と仏教
儒教は中国で生まれました。その思想は「どうやって統治するか」「どうやって社会を安定させるか」というもので、いわば「政治倫理」…というか「官僚倫理」でした。役人の心得という感じです。儒教はそもそも(孔子が学問として成立させる以前)は「宗教」でしたが、その性質から「宗教」の部分を捨てて、「官僚倫理」という「学問」に昇華したからこそ、現在まで残っているわけです。
と、いっても宗教から「宗教」を排除したのですから、官僚ではない人にとって儒教はあまり意味のないものです。だから中国では儒教は支配者の学問であり、庶民は道教を信仰してきました。
では仏教はどうかというと、仏教は「金持ちの道楽」でした。仏教の根幹は輪廻です。生まれ変わりを繰り返すという思想です。金持ちからすると、「こんな楽しい人生が、まだまだ何回も続くなんてサイコー!」となったのです。だから初期の仏教は非常に煌びやかなんですね。
日本と儒教と仏教
日本は儒教の影響がみられるのですが、非常に限定的でした。ちょこっとだけなんですね。日本は儒教が入ってきても昔からの価値観である「和」が中心でした。「みんな仲良く」「みんな平等」…ただし、「和を乱すやつは徹底排除」、これが「和」です。この和と儒教の上下関係は相容れないものです。
儒教は上下をはっきりさせることで社会を安定させようとします。上の言うことは下は絶対服従。そうすることが社会秩序を保つのです。ちなみに、下が上に逆らったら、ボコボコにします。
日本は「平等」という性質がありますから、同等に関わろうとするのですが、儒教国は「どっちが上か?」が大事ですから、そこにこだわります。また「和」は基本的に「みんな仲良く」が大事ですから、いきなり「どっちが上か?」と戦争や侵略をする儒教国ではどうしても後手に回ることになります。新羅・高麗という儒教国と日本の間には文化摩擦が起きて当然です。
百済はその「儒教」と「和」の文化摩擦に巻き込まれてしまいました。任那は新羅に圧迫され、このままでは百済は孤立してしまう。儒教ではない新しい価値観を百済は必要としました。いや、日本にとってもそうだった。
日本はおそらくこの時代に「兵」を失っていたんじゃないかと思うのです。
日本は「穢れ」を嫌い、「死」を嫌います。だから兵隊・戦争を嫌います。しかし兵隊は社会に絶対に必要なものです。これを「穢れ」という感覚の異民族にやらせていました。それが蝦夷です。蝦夷の子孫である佐伯が地域によっては名士として残っているのは、そういう事情があったからでしょう。ところが蝦夷も長く大和朝廷と関わっているうちに「穢れ」の感覚が身についてしまい、兵隊・戦争に関わりたくなくなってきた。もしかするとこの時代に兵隊が枯渇したんじゃないかと思います。
それで仏教が必要になった。仏教は当然「穢れ」の感覚がありません。穢れの感覚が無いなら、兵隊・戦争に対する嫌悪感はありません。だから日本も仏教を必要とした。そういう事情があったんじゃないかと私は考えています。
儒教は中国で生まれました。その思想は「どうやって統治するか」「どうやって社会を安定させるか」というもので、いわば「政治倫理」…というか「官僚倫理」でした。役人の心得という感じです。儒教はそもそも(孔子が学問として成立させる以前)は「宗教」でしたが、その性質から「宗教」の部分を捨てて、「官僚倫理」という「学問」に昇華したからこそ、現在まで残っているわけです。
と、いっても宗教から「宗教」を排除したのですから、官僚ではない人にとって儒教はあまり意味のないものです。だから中国では儒教は支配者の学問であり、庶民は道教を信仰してきました。
では仏教はどうかというと、仏教は「金持ちの道楽」でした。仏教の根幹は輪廻です。生まれ変わりを繰り返すという思想です。金持ちからすると、「こんな楽しい人生が、まだまだ何回も続くなんてサイコー!」となったのです。だから初期の仏教は非常に煌びやかなんですね。
日本と儒教と仏教
日本は儒教の影響がみられるのですが、非常に限定的でした。ちょこっとだけなんですね。日本は儒教が入ってきても昔からの価値観である「和」が中心でした。「みんな仲良く」「みんな平等」…ただし、「和を乱すやつは徹底排除」、これが「和」です。この和と儒教の上下関係は相容れないものです。
儒教は上下をはっきりさせることで社会を安定させようとします。上の言うことは下は絶対服従。そうすることが社会秩序を保つのです。ちなみに、下が上に逆らったら、ボコボコにします。
日本は「平等」という性質がありますから、同等に関わろうとするのですが、儒教国は「どっちが上か?」が大事ですから、そこにこだわります。また「和」は基本的に「みんな仲良く」が大事ですから、いきなり「どっちが上か?」と戦争や侵略をする儒教国ではどうしても後手に回ることになります。新羅・高麗という儒教国と日本の間には文化摩擦が起きて当然です。
百済はその「儒教」と「和」の文化摩擦に巻き込まれてしまいました。任那は新羅に圧迫され、このままでは百済は孤立してしまう。儒教ではない新しい価値観を百済は必要としました。いや、日本にとってもそうだった。
日本はおそらくこの時代に「兵」を失っていたんじゃないかと思うのです。
日本は「穢れ」を嫌い、「死」を嫌います。だから兵隊・戦争を嫌います。しかし兵隊は社会に絶対に必要なものです。これを「穢れ」という感覚の異民族にやらせていました。それが蝦夷です。蝦夷の子孫である佐伯が地域によっては名士として残っているのは、そういう事情があったからでしょう。ところが蝦夷も長く大和朝廷と関わっているうちに「穢れ」の感覚が身についてしまい、兵隊・戦争に関わりたくなくなってきた。もしかするとこの時代に兵隊が枯渇したんじゃないかと思います。
それで仏教が必要になった。仏教は当然「穢れ」の感覚がありません。穢れの感覚が無いなら、兵隊・戦争に対する嫌悪感はありません。だから日本も仏教を必要とした。そういう事情があったんじゃないかと私は考えています。
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