箭田珠勝大兄皇子の死・高麗と新羅の通和

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欽明天皇(五十)箭田珠勝大兄皇子の死・高麗と新羅の通和

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原文

十三年夏四月、箭田珠勝大兄皇子薨。五月戊辰朔乙亥、百濟・加羅・安羅、遣中部德率木刕今敦・河內部阿斯比多等奏曰「高麗與新羅、通和幷勢謀滅臣国與任那。故、謹求請救兵、先攻不意。軍之多少、隨天皇勅。」詔曰「今、百濟王・安羅王・加羅王與日本府臣等、倶遣使奏狀、聞訖。亦宜共任那幷心一力。猶尚若茲、必蒙上天擁護之福、亦頼可畏天皇之靈也。」

現代語訳

即位13年夏4月。箭田珠勝大兄皇子(ヤタノタマカツノオオエノミコ)が亡くなりました。

5月8日。百済・加羅・安羅は中部德率木刕今敦(チウホウトクソチモクラコムトン)・河内部阿斯比多(カフチベノアシヒタ)などを派遣して申し上げました。
「高麗と新羅は通商し和睦して、勢力を合わせて、わたしめの国と任那とを滅ぼそうとしています。慎んで救援の兵士を求め請願して、先制して不意に攻めようと思っています。軍の多少は天皇の勅(ミコトノリ)のままにいたします」
詔(ミコトノリ)して言いました。
「今、百済の王、安羅の王、加羅の王、日本府の臣下たちと、共に使者を派遣して報告した状況を聞いた。任那と共に心を合わせ、力を一つにするべきだ。そのようにすれば、必ず上天(アメ)は抱き、護る福を受け、また、可畏(カシコ)き天皇の霊威に頼ることになるだろう」
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解説

箭田珠勝大兄皇子
さらっと箭田珠勝大兄皇子が亡くなっています。箭田珠勝大兄皇子は欽明天皇の息子であり、次の敏達天皇の兄にあたる人物です。

新羅の曖昧さ
前のページでは百済の聖明王が「新羅」と任那の兵を率いて、高麗を攻めて土地を取り戻しているのに、このページではまた「新羅が高麗と密通」しています。新羅というのは、とにかく、ぶら下がってあっちへフラフラ、こっちへフラフラの「コウモリ外交」だったようです。ま、今の韓国と一緒なんですけど。
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