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欽明天皇(六十)百済の戦争・高麗王は東聖山の撤退
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百濟反問、亦如前法而對答焉、遂乃立標而合戰。於是、百濟以鉾刺墮高麗勇士於馬斬首、仍刺舉頭於鉾末、還入示衆。高麗軍將、憤怒益甚。是時、百濟歡呼之聲、可裂天地。復其偏將、打鼓疾鬪、追却高麗王於東聖山之上。
現代語訳
百済は返答しました。また前の法(ノリ=ルール)に則って、答えました。それですぐに標(シルシ=旗)を立てて戦い合いました。百済は鉾(ホコ)で、高麗の勇士(イクサビト)を馬から刺して落として首を切りました。それで頭を鉾の先に刺し、挙げて、要塞へと帰って衆人に示し見せました。高麗の軍将(イクサノキミ)は、ますます憤り怒りました。この時、百済の喜び叫ぶ声は天地が避けるほどでした。またその偏将(ソイノイクサノキミ=副将)は鼓を打って、疾く走り戦い、高麗の王を東聖山(トウジャウセン=平壌の東北の大聖山?)の上に追いたて、退かせました。
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解説
なぜ高麗の将軍の名前を書かないか
余昌が名乗ったのは書いたが、高麗の王の名前は書かない。この辺りにこの話のキモがあるんじゃ無いかと思いますが、知識が足り無いので分かりません。
余昌が名乗ったのは書いたが、高麗の王の名前は書かない。この辺りにこの話のキモがあるんじゃ無いかと思いますが、知識が足り無いので分かりません。
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