五経博士と僧と易博士と暦博士と医博士と採薬師と楽人の交代

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欽明天皇(六十二)五経博士と僧と易博士と暦博士と医博士と採薬師と楽人の交代

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原文

二月、百濟遣下部杆率將軍三貴・上部奈率物部烏等乞、救兵。仍貢德率東城子莫古、代前番奈率東城子言。五經博士王柳貴、代固德馬丁安。僧曇慧等九人、代僧道深等七人。別奉勅、貢易博士施德王道良・曆博士固德王保孫・醫博士奈率王有㥄陀・採藥師施德潘量豊・固德丁有陀・樂人施德三斤・季德己麻次・季德進奴・對德進陀。皆、依請代之。三月丁亥朔、百濟使人中部木刕施德文次等、罷歸。夏五月丙戌朔戊子、內臣、率舟師詣于百濟。

現代語訳

(即位15年)2月。百済は下部杆率將軍三貴(カホウカンソチショウグンサムクイ)・上部奈率物部烏(シャウホウナソチモノノベノカク)たちを派遣して、救援の兵を乞い願いました。それで德率東城子莫古(トクソチトウジャウシマクコ)を献上して、前の番(ツガイ)の奈率東城子言(ナソチトウジャウシゴン)と交代しました。五経博士の王柳貴(オウリウクイ)は固德馬丁安(コトクメチャウアン)と交代しました。僧の曇慧(ドムエ)たち9人を僧の道深(ダウジム)たち7人と交代しました。別に勅(ミコトノリ)を奉り、易博士の施德王道良(セトクオウドウリョウ)・暦博士の固德王保孫(コトクオウホウソン)・医博士の奈率王有㥄陀(ナソチオウウリョウダ)・採薬師(クスリカリハカセ)の施德潘量豊(セトクハンリョウブ)・固德丁有陀(コトクチョウウダ)、楽人(ウタマイノヒト=歌舞の人)の施德三斤(セトクサムコン)・季德己麻次(キトクコマシ)・季德進奴(キトクシンヌ)・対德進陀(タイトクシンダ)を献上しました。皆、請願によって交代しました。

3月1日。百済の使者の中部木刕施德文次(チウホウモクラセトクモンシ)たちは帰りました。

夏5月3日に内臣(ウチノオミ)は舟師(フナイクサ)を率いて百済へと詣でました。
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解説

百済から博士というか知識人や、楽人…つまり歌を歌ったり、踊ったりする楽団・舞踊の人がやって来ていました。しかも、「移住」ではなく「交代制」です。

ここから考えても日本と百済の関係は「日本が支配している」というものではなく、日本という運営に百済が関わっていると考えたほうがいいでしょう。なんて書くと、日本が百済の下と考えがちですが、そういうことではありません。百済は日本に救援を求めるくらいですから、軍事力は弱く、また、任那が混乱することで、国力が削がれる…そういう危機に陥る小さな国ってことです。だから百済が日本を支配するってのも難しいでしょう。

日本は共和国制だった。共和国というよりは「貿易経済圏」を維持するのが目的の組織だった。だから関係各国が人材を派遣して、そこで日本を運営していた。日本は貿易経済圏の利益を守るための組織だったのでしょう。百済が交代制で人を送っていたのはそういう意味ではないかと思います。
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