佐知村の飼馬奴苦都と聖明王の斬首と埋葬

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欽明天皇(六十六)佐知村の飼馬奴苦都と聖明王の斬首と埋葬

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原文

是時、新羅、謂佐知村飼馬奴苦都(更名谷智)曰「苦都賤奴也、明王名主也。今、使賤奴殺名主。冀傳後世、莫忘於口。」已而、苦都、乃獲明王、再拜曰「請斬王首。」明王對曰「王頭、不合受奴手。」苦都曰「我国法、違背所盟、雖曰国王、當受奴手。」一本云「明王、乘踞胡床、解授佩刀、於谷知令斬。」明王、仰天、大憩涕泣、許諾曰「寡人、毎念常痛入骨髄、願計不可苟活」乃延首受斬。苦都、斬首而殺、掘坎而埋。一本云「新羅、留理明王頭骨、而以禮送餘骨於百濟。今新羅王、埋明王骨於北廳階下、名此廳曰都堂。」
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現代語訳

この時に新羅は佐知村(サチスキ)の飼馬奴苦都(ウマカイヤッココツ)に語って言いました。
別名を谷智(コクチ)といいます。

「苦都(コツ)は卑しい奴隷だ。明王(メイオウ=百済の聖明王)は名のある主(コキシ)だ。今、卑しい奴に名のある主を殺させた。願わくば、後世に伝わり、口に忘れることは無いだろう」
苦都はすぐに明王を捕らえて、再拝して言いました。
「請い! 王の首を切ってさしあげましょう」
明王は答えて言いました。
「王の頭は奴隷の手で受けるべきではない」
苦都は言いました。
「我が国の法では、盟約したことに違反したならば、国王といっても、奴隷が手に受けるべきだ」
ある本によると明王は胡床(アグラ=身分の高い人が座る高い台)に乗り、しゃがみこんで、解いた佩刀(ハケルタチ=身につけた刀)を谷知に授けて斬らせたといいます。

明王は天を仰いで、大いに嘆き、涙を流しました。斬ることを許諾して言いました。
「寡人(オノレ)は念じるごとに、常に骨髄に入って痛いだろう。頼むから、万が一にも活き残らないように」
すぐに首を伸ばして斬られました。苦都は首を斬って殺しました。穴を掘って埋めました。
ある本によると、新羅は明王の頭の骨を埋めて、礼をもって余骨(アタシホネ)を百済に送りました。今の新羅の王は明王の骨を北庁(キタノマツリゴトドノ)の階の下に埋めました。この庁を名付けて都堂(トドウ)というといいます。
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解説

盟約
新羅と百済は不可侵の盟約をしていた?のかもしれません。それを破って百済が新羅を攻めた。だから明王の首を奴隷である苦都が殺してもよい理由になったと。それが史実かどうかは分かりませんが、少なくとも常識では「奴隷が王を殺すことはできない」という倫理があったのでしょう。
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