余昌の危機と筑紫国造・鞍橋君

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欽明天皇(六十七)余昌の危機と筑紫国造・鞍橋君

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原文

餘昌、遂見圍繞、欲出不得、士卒遑駭、不知所圖。有能射人・筑紫国造、進而彎弓、占擬射落新羅騎卒最勇壯者、發箭之利、通所乘鞍前後橋及其被甲領會也。復續發箭如雨、彌厲不懈、射却圍軍。由是、餘昌及諸將等得從間道逃歸。餘昌、讚国造射却圍軍、尊而名曰鞍橋君。鞍橋、此云矩羅膩。於是、新羅將等具知百濟疲盡、遂欲謀滅無餘。有一將云「不可。日本天皇、以任那事屢責吾国。況復謀滅百濟官家、必招後患。」故止之。

現代語訳

余昌(ヨショウ=聖明王の子)はついに囲まれて、出ようとしても出られません。士卒(イクサビト=兵士)は慌ててどうすればいいか分かりませんでした。弓を射ることが出来る人で、筑紫国造(ツクシノクニノミヤツコ)という人がいました。進んで弓を引き、そっと狙いを定めて、新羅の騎卒(ウマイクサ=騎馬兵)の最も勇み誇る人を射落としました。放った矢は鋭利であり、乗った馬の鞍の前後橋(マヘツクラボネシリツクラボネ=鞍の前後)を通し、その被った装甲の襟に及びました。また続いて放った矢は雨のようで、いよいよ激しく絶え間ないほどえす。囲んだ軍を弓を射て退かせました。それで余昌ともろもろの将たちは、間道(カクレミチ=隠れた道)から逃げ帰ることが出来ました。余昌は国造が囲んだ軍を弓で射て退かせたことを褒め讃えて、尊び、名付けて鞍橋君(クラジノキミ)といいます。
鞍橋は矩羅膩(クラジ)といいます。

新羅の将は百済が疲れて力が尽きたことを知り、滅ぼして残り無くしてしまおうと計画しました。一人の将がいて言いました。
「できません。日本の天皇は任那のことでしばしば我が国を責めました。ならば、また百済の官家(ミヤケ=直轄地)を滅ぼそうとすれば、必ずのちの憂いを招くでしょう」
それで止めました。
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解説

百済の軍勢には弓を射るのがうまい「筑紫国造」がいた、とあります。百済は日本の救援軍を得ているのですから、中に日本人がいてもなんら不思議ではありません。百済は筑紫の軍勢をよこすように請願していましたから、筑紫国造がいても不思議ではありません。

でも筑紫国造というのは名士です。今でいうと県知事とかそういう役職です。そういう人が百済の救援に駆り出されるというのは変じゃないかなと。

個人的には日本は「共和国」というか「小さな国の共同体」で、国というよりは「貿易経済圏」という感じだったのだと思うのですね。貿易経済圏を運営する「日本」としては参加している国が戦争し合うことは好ましくないのですが、各国は日本に束縛されているわけではなく、それぞれが独立して行動し、当然、領地争いや戦争をしていたのではないかと思うのです。筑紫国造もそういう個人的な利益を求めて百済と共同戦線を張ったのでしょう。また、筑紫としては中国→百済→任那→筑紫という貿易ルートが途絶えるのは損だった。

無論、日本(大和朝廷)からの要請もあったのでしょうが、これがどこまでの拘束力があったのか、また日本がどこまで本気だったのかは、これまでの日本の百済救援に対する煮え切らない態度から考えると、甚だ疑問だと思うのです。
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