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欽明天皇(六十三)汶斯干奴の奏上・函山城での新羅との戦争
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冬十二月、百濟遣下部杆率汶斯干奴、上表曰「百濟王臣明・及在安羅諸倭臣等・任那諸国旱岐等奏『以斯羅無道、不畏天皇、與狛同心、欲殘滅海北彌移居。臣等、共議、遣有至臣等、仰乞軍士、征伐斯羅。』而天皇遣有至臣、帥軍、以六月至來、臣等深用歡喜。以十二月九日、遣攻斯羅。臣、先遣東方領物部莫奇武連、領其方軍士、攻函山城。有至臣所將來民筑斯物部莫奇委沙奇、能射火箭。蒙天皇威靈、以月九日酉時、焚城拔之。故、遣單使馳船奏聞。」
現代語訳
(即位15年)冬12月に百済は下部杆率汶斯干奴(カホウカンソチモンシカンヌ)を派遣して表(フミ)を献上して言いました。
「百済の王で臣(ヤツカレ=へりくだった言い方)の明(メイ=百済の聖明王のこと)と安羅にいるもろもろの倭(ヤマト)の臣たち、任那の諸国の旱岐(カンキ)たちは言いました。
『斯羅(シラキ=新羅のこと)は無道で、天皇に畏まらず、狛(コマ=高麗のこと)と心を同じにして、海の北の弥移居(ミヤケ=直轄領)を損ない、滅ぼそうと思っています。わたしめらは会議をして、有至臣(ウチノオミ=内臣)たちを派遣して、仰いで軍士(イクサ=兵士)を乞い願って斯羅(シラキ)を征伐したいのです』
そうして天皇の派遣した有至臣(ウチノオミ=内臣)は軍を率いて、6月に到着しました。わたしめらは深く用いて歓喜しました。12月9日に斯羅に派遣して攻めました。わたしめはまず東方領物部莫奇武連(トウホウノアヅカリモノノベノマガムノムラジ)を派遣して、その軍士(イクサビト)を率いて函山城(カムムラノサシ)を攻めさせました。有至臣が来たところの民の筑斯物部莫奇委沙奇(ツクシノモノノベノマガワサカ)はよく火の矢を射ます。天皇の威霊(カシコキミタマ)のおかげで、この12月9日の酉時(ユウベ)に城を焼いて抜き取りました(=占領した)。それで単使(ヒトヘツカイ=副使の無い単独の簡単な使者)と馳船(トキフネ)を派遣して、報告をしました」
「百済の王で臣(ヤツカレ=へりくだった言い方)の明(メイ=百済の聖明王のこと)と安羅にいるもろもろの倭(ヤマト)の臣たち、任那の諸国の旱岐(カンキ)たちは言いました。
『斯羅(シラキ=新羅のこと)は無道で、天皇に畏まらず、狛(コマ=高麗のこと)と心を同じにして、海の北の弥移居(ミヤケ=直轄領)を損ない、滅ぼそうと思っています。わたしめらは会議をして、有至臣(ウチノオミ=内臣)たちを派遣して、仰いで軍士(イクサ=兵士)を乞い願って斯羅(シラキ)を征伐したいのです』
そうして天皇の派遣した有至臣(ウチノオミ=内臣)は軍を率いて、6月に到着しました。わたしめらは深く用いて歓喜しました。12月9日に斯羅に派遣して攻めました。わたしめはまず東方領物部莫奇武連(トウホウノアヅカリモノノベノマガムノムラジ)を派遣して、その軍士(イクサビト)を率いて函山城(カムムラノサシ)を攻めさせました。有至臣が来たところの民の筑斯物部莫奇委沙奇(ツクシノモノノベノマガワサカ)はよく火の矢を射ます。天皇の威霊(カシコキミタマ)のおかげで、この12月9日の酉時(ユウベ)に城を焼いて抜き取りました(=占領した)。それで単使(ヒトヘツカイ=副使の無い単独の簡単な使者)と馳船(トキフネ)を派遣して、報告をしました」
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解説
12月に下部杆率汶斯干奴が伝えた文の内容です。急に新羅のことを斯羅と書いているのは、この文章が実際の奏上を元にしているからじゃないかと思います。他にも「筑斯物部莫奇委沙奇」とあるのですが、この「筑斯」は「筑紫」のことです。
ところで、この新羅vs百済・日本の戦争について朝鮮の歴史書の三国史記にも記述があります。新羅本記にはこの戦争が「真興王15年7月」。百済本記には「聖王32年7月」となっています。日本書紀では12月9日となっていますから、全然違いますよね。
ところで、この新羅vs百済・日本の戦争について朝鮮の歴史書の三国史記にも記述があります。新羅本記にはこの戦争が「真興王15年7月」。百済本記には「聖王32年7月」となっています。日本書紀では12月9日となっていますから、全然違いますよね。
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