余昌を諌める耆老・聖明王の慰問

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欽明天皇(六十五)余昌を諌める耆老・聖明王の慰問

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原文

餘昌、謀伐新羅。耆老諫曰「天未與、懼禍及。」餘昌曰「老矣、何怯也。我事大国、有何懼也。」遂入新羅国、築久陀牟羅塞。其父、明王憂慮、餘昌長苦行陣久廢眠食、父慈多闕子孝希成、乃自往迎慰勞。新羅、聞明王親來、悉發国中兵、斷道擊破。

現代語訳

余昌(ヨショウ=百済の王子)は新羅を征伐しようと謀議しました。それを耆老(オキナドモ=老人たち)は諌めて言いました。
「天(アメ)はいまだその時を与えていません。おそらく禍(ワザワイ)が及ぶでしょう」
余昌は言いました。
「老(オキナ=老人)! 何を怯えているのか! わたしは大国(ヤマト)に仕えている。何を恐れるものがあるというのか!」
それで新羅国に入って久陀牟羅塞(クダムラノソコ=慶尚北道の城かと思われるが詳細は不明)を築きました。その父の明王(メイオウ=百済の聖明王)は、余昌が長い行軍に苦しみ、長い期間、眠ることも食べることもできなくなるのではないか、と憂慮しました。父の慈愛は欠けることが多く、子の孝行が成るのは稀だと思っていました。そこで自ら、行って軍を迎えて慰労しました。新羅は明王が自ら来たと聞いて、国中の全ての兵を興して、道を遮って撃ち破りました。
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解説

百済の王子の余昌が老人の「調子こいて新羅を征伐するのダメだってば!」と言われたのに、新羅へと征伐へ行き、この後、この無茶な新羅征伐のせいで父である聖明王は死んでしまいます。

儒教は敬老の思想があります。年寄りは偉い。だから年寄りは敬わないといけない、という考えです。この新羅征伐を諌める老人の「禍があるよ」という言葉が現実化するのは、儒教の思想の影響でしょう。
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