スポンサードリンク
欽明天皇(六十五)余昌を諌める耆老・聖明王の慰問
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
餘昌、謀伐新羅。耆老諫曰「天未與、懼禍及。」餘昌曰「老矣、何怯也。我事大国、有何懼也。」遂入新羅国、築久陀牟羅塞。其父、明王憂慮、餘昌長苦行陣久廢眠食、父慈多闕子孝希成、乃自往迎慰勞。新羅、聞明王親來、悉發国中兵、斷道擊破。
現代語訳
余昌(ヨショウ=百済の王子)は新羅を征伐しようと謀議しました。それを耆老(オキナドモ=老人たち)は諌めて言いました。
「天(アメ)はいまだその時を与えていません。おそらく禍(ワザワイ)が及ぶでしょう」
余昌は言いました。
「老(オキナ=老人)! 何を怯えているのか! わたしは大国(ヤマト)に仕えている。何を恐れるものがあるというのか!」
それで新羅国に入って久陀牟羅塞(クダムラノソコ=慶尚北道の城かと思われるが詳細は不明)を築きました。その父の明王(メイオウ=百済の聖明王)は、余昌が長い行軍に苦しみ、長い期間、眠ることも食べることもできなくなるのではないか、と憂慮しました。父の慈愛は欠けることが多く、子の孝行が成るのは稀だと思っていました。そこで自ら、行って軍を迎えて慰労しました。新羅は明王が自ら来たと聞いて、国中の全ての兵を興して、道を遮って撃ち破りました。
「天(アメ)はいまだその時を与えていません。おそらく禍(ワザワイ)が及ぶでしょう」
余昌は言いました。
「老(オキナ=老人)! 何を怯えているのか! わたしは大国(ヤマト)に仕えている。何を恐れるものがあるというのか!」
それで新羅国に入って久陀牟羅塞(クダムラノソコ=慶尚北道の城かと思われるが詳細は不明)を築きました。その父の明王(メイオウ=百済の聖明王)は、余昌が長い行軍に苦しみ、長い期間、眠ることも食べることもできなくなるのではないか、と憂慮しました。父の慈愛は欠けることが多く、子の孝行が成るのは稀だと思っていました。そこで自ら、行って軍を迎えて慰労しました。新羅は明王が自ら来たと聞いて、国中の全ての兵を興して、道を遮って撃ち破りました。
スポンサードリンク
解説
百済の王子の余昌が老人の「調子こいて新羅を征伐するのダメだってば!」と言われたのに、新羅へと征伐へ行き、この後、この無茶な新羅征伐のせいで父である聖明王は死んでしまいます。
儒教は敬老の思想があります。年寄りは偉い。だから年寄りは敬わないといけない、という考えです。この新羅征伐を諌める老人の「禍があるよ」という言葉が現実化するのは、儒教の思想の影響でしょう。
儒教は敬老の思想があります。年寄りは偉い。だから年寄りは敬わないといけない、という考えです。この新羅征伐を諌める老人の「禍があるよ」という言葉が現実化するのは、儒教の思想の影響でしょう。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
欽明天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page61 欽明天皇(六十一)渟中倉太珠敷尊の立太子・百済の使者は筑紫へ
- Page62 欽明天皇(六十二)五経博士と僧と易博士と暦博士と医博士と採薬師と楽人の交代
- Page63 欽明天皇(六十三)汶斯干奴の奏上・函山城での新羅との戦争
- Page64 欽明天皇(六十四)竹斯嶋の兵の要請・百済の献上品
- Page65 欽明天皇(六十五)余昌を諌める耆老・聖明王の慰問
- Page66 欽明天皇(六十六)佐知村の飼馬奴苦都と聖明王の斬首と埋葬
- Page67 欽明天皇(六十七)余昌の危機と筑紫国造・鞍橋君
- Page68 欽明天皇(六十八)恵は聖明王の死を報告する
- Page69 欽明天皇(六十九)蘇我臣の進言・建邦之神を祀ること
スポンサードリンク