スポンサードリンク
欽明天皇(八十七)畝原・奈羅・山村の高麗人の先祖
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
廿六年夏五月、高麗人頭霧唎耶陛等、投化於筑紫。置山背国、今畝原・奈羅・山村高麗人之先祖也。廿八年、郡国大水飢、或人相食。轉傍郡穀、以相救。
現代語訳
即位26年夏5月。高麗人の頭霧唎耶陛(ズムリヤヘ)たちが筑紫に入って帰化して、山背国(ヤマシロノクニ)に置かれました。今の畝原(ウネハラ)・奈羅(ナラ)・山村(ヤマムラ)の高麗人の先祖です。
即位28年。郡国(クニグニ)は大水(オオミズ=洪水)になって飢えました。また人食いもありました。そばの郡の穀(タナツモノ=穀物)を運びあって救援しました。
即位28年。郡国(クニグニ)は大水(オオミズ=洪水)になって飢えました。また人食いもありました。そばの郡の穀(タナツモノ=穀物)を運びあって救援しました。
スポンサードリンク
解説
高麗人が筑紫だから九州にやってきて、帰化したというのですね。これは高麗→朝鮮南部→九州にしっかりとした交易ルートがあったからでしょう。現在の北朝鮮とはぜんぜん違うわ。
その高麗人が山背国へと置かれたのだから、九州→瀬戸内の交易ルートもしっかりとしていたわけでしょうね。瀬戸内ルートは分かりきったことですけど。
大水、飢え、人食い
この文書は中国の歴史書の漢書の元帝紀の初元元年9月にほぼ同じ記事があります。人によっては史実ではないと考えるかもしれません。しかしこれは、この時代に実際に日本であった洪水と飢餓を「漢書」の文章を借りて表現したものと考えたほうが自然。なぜなら、わざわざ虚偽で「悪い記事」を書くわけないから。
その高麗人が山背国へと置かれたのだから、九州→瀬戸内の交易ルートもしっかりとしていたわけでしょうね。瀬戸内ルートは分かりきったことですけど。
大水、飢え、人食い
この文書は中国の歴史書の漢書の元帝紀の初元元年9月にほぼ同じ記事があります。人によっては史実ではないと考えるかもしれません。しかしこれは、この時代に実際に日本であった洪水と飢餓を「漢書」の文章を借りて表現したものと考えたほうが自然。なぜなら、わざわざ虚偽で「悪い記事」を書くわけないから。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
欽明天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page83 欽明天皇(八十三)河辺臣の婦人の甘美媛
- Page84 欽明天皇(八十四)調吉士伊企儺は屈せず・大葉子の歌
- Page85 欽明天皇(八十五)大伴連狹手彦の勝利・珍宝貨賂と七織帳と鉄屋
- Page86 欽明天皇(八十六)摂津国の三嶋郡の埴廬の新羅人の先祖
- Page87 欽明天皇(八十七)畝原・奈羅・山村の高麗人の先祖
- Page88 欽明天皇(八十八)胆津による白猪田部の検定
- Page89 欽明天皇(八十九)蘇我稲目の死・江渟臣裾代の報告・高麗の船の座礁
- Page90 欽明天皇(九十)膳臣傾子は越へ・天皇と偽る道君
- Page91 欽明天皇(九十一)狹々波山で飾船に装い相楽館でもてなす
スポンサードリンク