田部

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田部

投稿日時:2017-10-22 12:30:31
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田部(タベ)

田部(タベ)は田んぼを耕して収穫する集団(民)のこと。日本書紀には「田部屯倉(タベノミヤケ)」とある。田部屯倉は朝廷の「直轄地」であり、田部はその直轄地で働く民のこと。

田部の制度が初めて見られるのが「景行天皇」の時代であるのは古事記も日本書紀も変わらないです。ただし「田部」という記述自体は古事記の誓約の神々の系譜の「額田部湯坐連」などが見られる。ただ、初期の記述は「神の子孫の名前」として上がっているだけ。
実際に景行天皇の時代に「田部」か、それに近いシステムが生まれたのではないかと思われます。
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古事記に登場する「田部」

応神天皇の后妃と御子たち
桜井の田部連(タベノムラジ)

八田の 一本菅は 子持たず
八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)の御名代(ミナシロ=名を残すための土地)として八田部(ヤタベ)を定めました。

引田部の赤猪子
引田部(ヒケタベ)

日本書紀に登場する「田部」

第七段一書(三)-5姉君は、天の国を照らしてください。
額田部連(ヌカタベノムラジ)

崇神天皇(二十二)イズモノフルネ(日本書紀)
矢田部造(ヤタベノミヤツコ)

神功皇后(三十二)誰を百済に派遣し虚実を調べよう
額田部槻本首(ヌカタベノツキモトノオビト)

応神天皇(二)即位、皇后と妃と子息子女
櫻井田部連男鉏(サクライノタベノムラジオサヒ)

安閑天皇(十三)犬養部の設置・桜井田部連、県犬養連、難波吉士を税の司らせる
桜井田部連(サクライノタベノムラジ)

欽明天皇(七十六)久礼叱及伐干と奴氐大舍の怒り・穴門館の河内馬飼首押勝
額田部連(ヌカタベノムラジ)

欽明天皇(八十八)胆津による白猪田部の検定
白猪田部

崇峻天皇(九)萬の白犬・桜井田部連胆渟の犬
桜井田部連胆渟(サクライノタベノムラジイヌ)

推古天皇(一)出自と即位の経緯
額田部皇女(ヌカタベノヒメミコ=推古天皇

推古天皇(二十八)大唐の親書・金の髻花と5色の陵羅
推古天皇(三十三)新羅と任那の使者の歓待と儀式
推古天皇(三十四)十九年夏五月五日、菟田野での薬猟
額田部連比羅夫(ヌカタベノムラジヒラブ)

推古天皇(四十二)薬猟・犬上君御田鍬と矢田部造の遣隋使
推古天皇(四十三)犬上君御田鍬と矢田部造と百済の使者・慧慈の帰国
矢田部造(ヤタベノミヤツコ)

舒明天皇(十四)田村皇子の即位・田部連を屋久島に派遣
舒明天皇(十六)犬上君三田耜と薬師恵日を大唐に派遣
田部連(タベノムラジ)

孝徳天皇(十一)十師に任じる・来目臣と三輪色夫君と額田部連甥を法頭に
額田部連甥(ヌカタベノムラジオイ)

孝徳天皇(五十三)事後処理・14人の斬首と9人の絞首
額田部湯坐連(ヌカタベノユエノムラジ)

斉明天皇(十一)蘇我赤兄の天皇批判・有馬皇子の謀反
斉明天皇(十二)有間皇子の刑死・謀反の異説
新田部米麻呂(ニイタベノコメマロ)

天智天皇(二十七)后妃と子息氏女
天武天皇(三十二)即位・后妃と子息子女
新田部皇女(ニイタベノヒメミコ)

天武天皇(三十二)即位・后妃と子息子女
新田部皇子(ニッタベノミコ)

天武天皇(九十二)河辺臣子首を金忠平をもてなすために派遣
田部連国忍(タベノムラジクニオシ)

天武天皇(百五)38氏に連姓を与える
矢田部造(ヤタベノミヤツコ)

天武天皇(百十五)50氏に宿禰を賜う
桜井田部連(サクライノタベノムラジ)
新田部連(ニイタベノムラジ)
額田部連(ヌカタベノムラジ)
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引用

古事記からの引用
オオウス命の系譜
この時代に田部が設置されました。
東国の安房の水門を定めました。
膳(カシワデ)の大伴部(オオトモベ)を定めました。
大和の屯家を定めました。
また坂手池(サカテノイケ)を作って周囲に竹を植えました。

日本書紀からの引用
景行天皇(五十)田部屯倉を諸国に興す
即位57年。秋9月。
坂手池(サカテノイケ)を作りました。竹をその堤(ツツミ)の上に植えました。
冬10月に諸国に令(ノリゴト)して、田部屯倉(タベノミヤケ)を興しました。

安閑天皇(六)小墾田屯倉を紗手媛に・桜井屯倉を香々有媛に・難波屯倉を宅媛に
小墾田屯倉(オハリダノミヤケ=大和国高市郡=飛鳥付近)と国毎(クニゴト)の田部(タベ=屯倉を耕す民)を紗手媛(サテヒメ)に与えました。桜井屯倉(サクライノミヤケ=河内国河内郡桜井郷=現在の大阪府枚岡市池島?)と国毎(クニゴト)の田部を香々有媛(カカリヒメ)に与えました。

安閑天皇(八)味張は钁丁を献上・三嶋竹村屯倉には河内県の部曲を
それとは別に狹井田(サイタ=地名だが未詳)を六町(町は面積の単位)を大伴大連に送りました。三嶋竹村屯倉(ミシマノタカフノミヤケ)には河内県(カフチノアガタ)の部曲(ウジヤツコ=豪族の私有民)をもって田部とすることの始まりはこれからです。

欽明天皇(七十三)備前の児嶋郡と倭国の高市郡に屯倉を設置
ある本によると、あちこちの韓人を大身狹屯倉(オオムサノミヤケ)の田部(タベ=田を耕す民)としました。高麗人を小身狹屯倉(オムサノミヤケ)の田部としました。韓人・高麗人を田部にしました。それで屯倉の号(ナ)とした、といいます。

欽明天皇(八十八)胆津による白猪田部の検定
即位30年春1月1日。欽明天皇は詔(ミコトノリ)して言いました。
「田部(タベ=直轄地を交錯する部民)を量(ハカ=人数を数えたこと?)って置いたが、その土地に田部ではない民がやって来るようになってから長い時間が経った。10歳になったのに籍(ナノフミタ=戸籍)から漏れて、課(エツキ=課役=労働)から逃れている者が多い。胆津(イツ)を派遣して…

敏達天皇(七)田部の名籍を白猪史の胆津に
(即位3年)冬10月9日。蘇我馬子大臣(ソガノウマコオオオミ)を吉備国に派遣して白猪屯倉(シライノミヤケ)と田部(タベ)を増やしました。田部の名籍(ナノフミタ)を白猪史(シライノフビト)の胆津(イツ)に授けました。

孝徳天皇(二十六)穂積臣咋と巨勢徳禰臣の罪
巨勢徳禰臣(コセノトコネノオミ)が犯した罪は、百姓から、戸ごとに金品を求めたことです。咎められて、物を返しましたが、すべては返しませんでした。また、田部(田を耕す部民)から馬を取りました。
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