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景行天皇(五十)田部屯倉を諸国に興す
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現代語訳
即位57年。秋9月。
坂手池(サカテノイケ)を作りました。竹をその堤(ツツミ)の上に植えました。
冬10月に諸国に令(ノリゴト)して、田部屯倉(タベノミヤケ)を興しました。
即位58年の春2月11日。
近江国(オウミノクニ)に幸(イデマ)して、志賀(シガ=滋賀県滋賀郡)に三年滞在しました。(滞在した宮を)高穴穂宮(タカアナホノミヤ)といいます。
即位60年冬11月7日。
天皇は高穴穂宮で崩御しました。その時、106歳でした。
坂手池(サカテノイケ)を作りました。竹をその堤(ツツミ)の上に植えました。
冬10月に諸国に令(ノリゴト)して、田部屯倉(タベノミヤケ)を興しました。
即位58年の春2月11日。
近江国(オウミノクニ)に幸(イデマ)して、志賀(シガ=滋賀県滋賀郡)に三年滞在しました。(滞在した宮を)高穴穂宮(タカアナホノミヤ)といいます。
即位60年冬11月7日。
天皇は高穴穂宮で崩御しました。その時、106歳でした。
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解説
田部屯倉
田部は朝廷の田。屯倉は朝廷の直轄領。ここでは「タベノミヤケ」と読むことにしていますが、おそらくは「田部」と「屯倉」を作ったというのが実際かと。
ちなみに「屯倉」という言葉は日本書紀では垂仁天皇の「垂仁天皇(十七)出雲の神宝と神社へ兵器を祭る始まり」でちょっと登場しています。ここでは來目邑(クメノムラ)に屯倉ができたと書いてあるだけで、このページのように「諸国に作った」とは違います。垂仁天皇から景行天皇になるたった一代で大和朝廷がかなり発展し、影響力を持ったためでしょう。
志賀に高穴穂宮を
景行天皇が崩御するまでの三年を滋賀で過ごしています。この前のページで東山道が登場していて、東山道の蝦夷を従えたという話があります(景行天皇(四十八)東山道の十五国の都督)。滋賀は東山道の入り口です。おそらく東山道が安定し、そこで貿易ができるようになり、滋賀が重要拠点となったのではないか?と思います。
田部は朝廷の田。屯倉は朝廷の直轄領。ここでは「タベノミヤケ」と読むことにしていますが、おそらくは「田部」と「屯倉」を作ったというのが実際かと。
ちなみに「屯倉」という言葉は日本書紀では垂仁天皇の「垂仁天皇(十七)出雲の神宝と神社へ兵器を祭る始まり」でちょっと登場しています。ここでは來目邑(クメノムラ)に屯倉ができたと書いてあるだけで、このページのように「諸国に作った」とは違います。垂仁天皇から景行天皇になるたった一代で大和朝廷がかなり発展し、影響力を持ったためでしょう。
志賀に高穴穂宮を
景行天皇が崩御するまでの三年を滋賀で過ごしています。この前のページで東山道が登場していて、東山道の蝦夷を従えたという話があります(景行天皇(四十八)東山道の十五国の都督)。滋賀は東山道の入り口です。おそらく東山道が安定し、そこで貿易ができるようになり、滋賀が重要拠点となったのではないか?と思います。
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景行天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page46 景行天皇(四十六)皇后の死と新たな皇后
- Page47 景行天皇(四十七)磐鹿六鴈が白蛤を膾に
- Page48 景行天皇(四十八)東山道の十五国の都督
- Page49 景行天皇(四十九)御諸別王の東国運営
- Page50 景行天皇(五十)田部屯倉を諸国に興す
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