出雲の神宝と神社へ兵器を祭る始まり

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垂仁天皇(十七)出雲の神宝と神社へ兵器を祭る始まり

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原文

廿六年秋八月戊寅朔庚辰、天皇物部十千根大連曰「屢遣使者於出雲国、雖檢校其国之神寶、無分明申言者。汝親行于出雲、宜檢校定。」則十千根大連、校定神寶而分明奏言之。仍令掌神寶也。

廿七年秋八月癸酉朔己卯、令祠官卜兵器爲神幣、吉之。故、弓矢及横刀納諸神之社。仍更定神地・神戸、以時祠之。蓋兵器祭神祇、始興於是時也。是歲、興屯倉于來目邑。屯倉、此云彌夜氣。

現代語訳

即位26年秋8月3日。
天皇物部十千根大連(モノノベノトオチネノオオムラジ)に言いました。
「使者(ツカイ)を出雲国へ派遣して、その国の神宝(カムタカラ)を檢校(カムガヘシム=見る・調べる)したいと言ったのだが、(神宝がどういう品物かを)ハッキリと答えるものが居ない。そこでお前が自ら出雲に行って、檢校しろ」

すぐに十千根大連(トオチノネノオオムラジ)の神宝を調べて、ハッキリさせて天皇に申し上げました。それで神宝を手に入れました。

即位27年。秋8月7日。祠官(カムヅカサ=官位の名前)に命じて、兵器(ツワモノ)を神の幣(マヒ=捧げ物)にしようと占うと『吉』と出ました。そこで弓矢と横刀(タチ)を諸々の神社に納めました。それで更に、神地(カムドコロ)・神戸(カムベ)を定めて祀りました。兵器を神祇に祭るのはこのときが始まりです。

この年、屯倉(ミヤケ=宮家=天皇の直轄地)が來目邑(クメノムラ)に出来ました。
屯倉は彌夜氣(ミヤケ)
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解説

出雲の神宝
出雲の宝を手にいれるという話は日本書紀崇神天皇60年の「崇神天皇(二十二)イズモノフルネ(日本書紀)」にもあります。

日本人は「物」は「物の怪」の「モノ」で、単なる物質というものは存在しません。あらゆる「モノ」には「霊」がこもっています。よって、神宝というのは、単なる「高価そうなもの」ではなく、「神」そのものと言っていいものです。それを崇神天皇・垂仁天皇の時代に奪われた、となると出雲の勢力が落ちたか、出雲のグループがヤマトに移住したか、そういう一つの区切りのようなものがこの時代にあったのではないかと思われます。
兵器と神社
即位27年に初めて「兵器」を神社に納めるようになったという話です。つまり神社が「戦争」の要素を強く持つようになったということです。

これ以前、神武天皇の時代でも、戦争前に神社で誓約をする…といったように「神社と戦争」は既に結びついていたのですが、それは「命運」を神に預けるという程度の意味でした。

神武天皇誓約というのは天香山の「土」で皿とツボを作って、皿で飴を作り、ツボで漁をするというものです。つまり、戦争のための誓約の儀式といっても「農業(飴は米から作る)」と「漁業」という日常生活に根ざしたものです。それが、この垂仁天皇即位27年から神社に「兵器」という戦争のためのモノを納めるようになるわけです。どうして兵器を納めるのか?というと神様が武装するためです。

それまでの神社と戦争のつながりよりも、かなり強く具体的な繋がりになっています。
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