もう一つの天照大神の祭祀物語

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垂仁天皇(十六)もう一つの天照大神の祭祀物語

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原文

一云、天皇、以倭姫命爲御杖、貢奉於天照大神。是以、倭姫命、以天照大神鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後、隨神誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢国渡遇宮。是時倭大神、著穗積臣遠祖大水口宿禰而誨之曰「太初之時期曰『天照大神、悉治天原。皇御孫尊、專治葦原中国之八十魂神。我、親治大地官者。』言已訖焉。然先皇御間城天皇、雖祭祀神祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、復天下太平矣。」時天皇、聞是言、則仰中臣連祖探湯主而卜之、誰人以令祭大倭大神。卽渟名城稚姫命、食卜焉。因以、命渟名城稚姫命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。然、是渟名城稚姫命、既身體悉痩弱、以不能祭。是以、命大倭直祖長尾市宿禰、令祭矣。
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現代語訳

ある書によると…
天皇は倭姫命(ヤマトヒメミコト)を御杖(ミツエ=依り代と同じ意味)として、天照大神に奉りました。それで倭姫命は天照大神を磯城(シキ=地名)の嚴橿(イツカシ=神の依代となる木)の根元に鎮座して祀りました。その能登に神の教えの通りに即位26年冬10月に伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移りました。
このときに倭大神は穂積臣(ホズミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチノスクネ)に降りて教えました。
「太初(モトハジメ=イザナギが天照に天界統治を命じたこと)のときに約束した。『天照大神は天原(アマハラ=天界)を収める。その天照の子孫の皇御孫尊(スメマミコト)は葦原中国(アシハラナカツクニ)の八十魂神(ヤソタマノカミ=おそらくは国津神全般のこと)を治める。私(=倭大神)は大地官(オオチツカサ=地主の神)を治めよう』と。言葉はそれでお終い。しかし、先代の御間城天皇(ミマキスメラミコト崇神天皇)は神祇を祭祀(イワイマツリ)したのだが、微細(クワシク)はその源根(モト)を探らずに、粗(オロソカ)に枝葉(ノチノヨ)に留めた。天皇の命は短い。それで今の天皇は前の天皇が出来なかったことを悔いて慎み、祀れば、天皇の命は長く、また天下は太平になる」
天皇はその言葉を聞いて、すぐに中臣連(ナカトミノムラジ)の祖の探湯主(クカヌシ)に言って、誰に大倭大神(ヤマトオオカミ)を祀らせるべきか?を占わせました。渟名城稚姫命(ヌナキワカヒメノミコト)が占いに出ました。そこでこの姫に神地(カムドコロ)を穴磯邑(アナシノムラ=大和国城下郡・現在の奈良県桜井市穴師)に定めて、大市(オオチ=大和国城上郡大市郷・現在の奈良県桜井市芝)の長岡岬(ナガオカノサキ=巻向山の尾崎か?)を祀りました。しかしこの渟名城稚姫命(ヌナキワカヒメノミコト)は身体が病み弱り、神を祀ることはできない状態となりました。そこで、大倭直(ヤマトノアタイ)の祖の長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)に命じて祀らせました。
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解説

前提として、天照と大倭大神は同居していた
崇神天皇(四)疫病で国民の半数が死亡(日本書紀)」にあるように天照大神と大倭大神(倭国魂神)は「以前から、並べて祀ってあった」と書いてあります。つまり天照大神は「大和土着の神」であり、大倭大神(倭国魂神)とセットの神だったということです。もしかするとイザナギ・イナザミのような夫婦設定だったのかもしれません。また名前から想像するに「天」と「地」の神という組み合わせであり、「農業」の神だったのでしょう。

それが崇神天皇のときに、「国が乱れているのはどうも、この二柱の神が仲が悪いから、っぽいなぁ」と、二柱の神を分離して祀るようになります。離婚になるのかなぁ。

それで一人になった大倭大神(倭国魂神)を渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)で祀るのですが髪が抜けて弱り、それどころじゃない。その後、姫の代わりに市磯長尾市(イチシノナガオチ)が祀ることで、疫病は止み、とりあえずは問題は解決しました。これが即位6年頃の話。

それで天照大神がこの即位25年になって鎮座する場所が決まるわけです。つまり、天照大神は「後回し」にされた上に「たらい回し」にあった、という言い方も出来ます。今更急に祀ることになったのは、祟りが怖かったからじゃないかと思われます。ま、それはともかく。

その結果、天照を祀ることになった人物がこの記事(仁徳天皇26年)で「長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)」、崇神天皇6年のときは「市磯長尾市(イチシノナガオチ)」で、おそらくは同一人物。

また、天照大神を祀って弱った皇女がこの記事(仁徳天皇26年)では渟名城稚姫命(ヌナキワカヒメノミコト)。崇神天皇6年のときは渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ)で、こちらも名前がソックリ。

これはこのページが「一伝」…つまり「一説によると」と描き方をしていることから、「建前は崇神天皇のときにとりあえずはちゃんと祀った」のだけど、「本当は垂仁天皇のときまで後回しにしたんだよね、テヘペロ」ということ…という可能性はあります。
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