土部を出雲から呼び、埴輪を作らせる

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垂仁天皇(二十)土部を出雲から呼び、埴輪を作らせる

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原文

卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命(一云、日葉酢根命)也薨。臨葬有日焉、天皇詔群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲国之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、詔野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。
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現代語訳

即位32年秋7月6日。皇后の葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)が亡くなりました。
ある伝によると、葉酢根命(ヒバスネノミコト)といいます。

葬るまでに日がありました。
天皇は群卿(マヘツキミタチ)にいいました。

「死人に生前使えていた人が従うこと(=殉葬のこと)が良くないことは分かった。今回の葬(モガリ)はどうするべきか?」
野見宿禰(ノミノスクネ)は進み出て言いました。
「君王(キミ)の陵墓(ミササギ)に生きている人を埋めて立たせるのは良くないことです。どうして後葉(ノチノヨ=後世)にも(殉葬は良くないと)伝えたいだろうか(伝えたいわけがない)。願わくは、今代わりになることで話し合いましょう」
すぐに使者を派遣して出雲国の土部(ハジベ)100人を呼び寄せて、(野見宿禰が)自ら土部を使って、埴(ハニツチ)を取り、人や馬や種々のものの形を作って、天皇に献上して言いました。
「これより以降、この土物(ハニモノ)を生人(イキタルヒト)に替えて、陵墓に立てて、後葉(ノチノヨ)の法則(ノリ)とましょう」
天皇はとても喜び、野見宿禰に言いました。
「お前の便議(タヨリナルハカリコト=代替案)はとても私の望みにかなったものだった」
それでその土物を初めて日葉酢姫命(ヒバスヒメノミコト)の墓に立てました。それでこの土物を名付けて『埴輪(ハニワ)』と言います。または立物(タテモノ)といいます。
それで令(ノリゴト)をしていいました。
「これより以降は陵墓(ミササギ)に必ず、この土物を樹(タ)てて、人を傷つけないよう」
天皇は野見宿禰を厚く功賞して鍛地(カタシトコロ)を与えました。土部の職に就かせました。それで本の姓を改めて土部臣(ハジノオミ)といいます。土師連(ハジノムラジ)などが天皇の喪葬(ミハブリ)を司る所以です。いわゆる野見宿禰はこの土部連などの始祖です。
古事記の対応箇所
垂仁天皇の墓
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解説

野見宿禰
野見宿禰は「垂仁天皇(十)初めての相撲」で當摩蹶速(タギマノクエハヤ)と戦って、殺した武人。それが出雲から土器を作る土師を呼んで、埴輪を作る風習の始まりとなりました。
人を樹てる
このページでは「人を樹てる(ひとをたてる)」という表現が二箇所あります。人間を樹と見立てている節があります。
垂仁天皇(十八)殉葬の禁止」でも書きましたが、殉葬にされる「人間」は墓の周りに、土中に生き埋めではなく、上半身だけ出している状態だったのではないでしょうか??
それならば「垂仁天皇(十八)殉葬の禁止」で描かれるように、「泣きうめき声」が聞こえるのは当然です。
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