十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖

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垂仁天皇(二十三)十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖

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原文

卅九年冬十月、五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部、亦名曰裸伴(裸伴、此云阿箇播娜我等母)、藏于石上神宮也。是後、命五十瓊敷命、俾主石上神宮之神寶。

一云、五十瓊敷皇子、居于茅渟菟砥河上、而喚鍛名河上、作大刀一千口。是時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷十箇品部、賜五十瓊敷皇子。其一千口大刀者、藏于忍坂邑。然後、從忍坂移之、藏于石上神宮。是時、神乞之言「春日臣族名市河、令治。」因以命市河令治、是今物部首之始祖也。
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現代語訳

即位39年冬10月。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥川上宮(ウトノカワカミノミヤ=大阪府阪南市玉田山?)いて、剣一千口を作りました。それでその剣に因んで名付けて、川上部といいます。またの名は裸伴(アカハダガトモ)といいます。
裸伴は阿箇播娜我等母(アカハダガトモ)と読みます。

石上神宮(イソノカミカムミヤ)に蔵(オサ)めました。

こののちに垂仁天皇は五十瓊敷命(イニシキノミコト)に命じて石上神宮の神宝を管理させました。
ある伝によると・・・
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥河上(ウトノカワカミ)に居ました。鍛名(カヌチナ)は川上を呼び寄せて、太刀一千口を作らせました。この時に、楯部(タテヌイベ)、倭文部(シトリベ)、神弓削部(カムユゲベ)、神矢作部(カムヤハギベ)、大穴磯部(オオアナシベ)、泊橿部(ハッカシベ)、玉作部(タマツクリベ)、神刑部(カムオサカベ)、日置部(ヒオキベ)、太刀佩部(タチハカベ)…併せて、十の品部(トモノミヤツコ)を五十瓊敷命(イニシキノミコト)に与えました。
その一千口の太刀を忍坂邑(オシサカノヘキ)に蔵(オサ)めました。それで後に忍坂から移して石上神宮に蔵(オサ)めました。この時に神は尋ねると神は言いました。
「春日臣(カスガノオミ)の族(ヤカラ)の市河(イチカワ)に治めさせなさい」
それで市河に命じて治めさせました。
これが今の物部首(モノノベノオビト)の始祖です。
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解説

部の意味
楯部は楯を作る部署。
倭文部は倭文という「布」を作る部署。
神弓削部、神矢作部は弓矢を作る部署のこと。
大穴磯部は詳細不明
泊橿部は、よくわかっていないが、757年成立の養老律令の職員令土工司条に泥部という記述があり、そこに「泥部は古い言い方で波都加此乃友造(ハツカシノトモツクリ)」と書いてあるので土関係の仕事(…瓦作りなど)と思われます。
玉作は玉を作る部署のこと。
神刑部は裁判・警察関係かと。
日置部はハッキリしないが、日置部の氏族の日置氏が後に宮殿の灯篭の仕事をしているところを見ると、火に関わる仕事なのは間違いなさそう。それが「刀を作るための火」なのか「灯りとしての火」なのかはわからない。もしくは両方か。
太刀佩部は太刀を身につける部署で警備か武士といったものだったのではないかと思われます。
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