石上神宮

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石上神宮

投稿日時:2017-06-22 02:04:18
漢字・読みイシノカミジングウ
別名石上振神宮
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概要

石上神宮(イソノカミジングウ)は古事記・日本書紀に登場する神社の名前。
日本書紀では履中天皇のところで石上振神宮という記述もある。
神宮というのは本来、皇統に関わる神の神社につく言葉なのですが、祀っている神は「布都御魂大神」で、皇統とは関係がない。なぜ神宮なのかは謎。古事記や日本書紀の原文にも「石上神宮」と書いてある。本来は皇統と関係があったか、神宮という言葉自体が昔は皇統と関係がなかったか。私はどうも後者に思う。
比定地
現在の奈良県天理市の石上神宮。

剣の宮

剣の神と神宝の宮
石上神宮の名前が登場するのは古事記では神武東征、日本書紀ではスサノオヤマタノオロチを切った剣が収められた神社として登場。ただしどちらも「のちには石上に祀られるようになりましたよ」という後日談なので、実際に物語に登場するのは記紀共に垂仁天皇の時代。垂仁天皇の皇子の印色入日子命(日本書紀では五十瓊敷命)が現在の大阪府の阪南市の「鳥取の河上宮」で「刀千本」を作り、大和の石上神宮に奉納した。
●この刀は金属製ではなく石製だったのでは?と個人的には思う。

日本書紀によれば剣千本とは別に、ムジナの腹から出てきた八尺瓊(ヤサカニ)の勾玉も奉納されています。
石上神宮にはどうやら諸氏族の宝が奉納されていたらしい。それが天武天皇の時代に返還されたとある。それがどの程度の本当かは分からない。日本後紀の桓武天皇の記述によるとこの時代にも神宝があり、神宝を運び出すのに十五万七千人必要だったとか。誇張はあるでしょうが、神宝はあったのでしょう。
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物語

蛇之麁正(オロチノアラマサ)
日本書紀の一書では、スサノオヤマタノオロチを切った「蛇之麁正」が収められた場所が石上神宮です。
履中天皇の宮
履中天皇が住吉仲皇子の反乱を受けて難波宮から石上神宮に逃げ、物語はしばらく石上神宮を舞台とする。反正天皇が履中天皇の信頼を得るために住吉仲皇子を暗殺させるあたりは石上神宮を舞台にしています。その後、反乱を鎮圧すると履中天皇は磐余稚桜宮(イワレノワカサクラノミヤ)で即位します。
国見の逃げた場所
阿閉臣国見の嘘の密告によって、雄略天皇の娘の栲幡皇女(タクハタノヒメミコ)が自殺してしまいます。娘の潔白を知った雄略天皇は阿閉臣国見を殺そうとしますが、阿閉臣国見は石上神宮に逃げ込みます。その後、阿閉臣国見がどうなったのかについては記述がありません。
阿閉臣国見が石上神宮に逃げ込んだのは、そこに逃げ込めば天皇とて手が出せないからです。神社が穢れを嫌い、殺されると分かっている人物は引き渡さないからでしょう。それはつまり神社の自治権が強く認められていたということです。
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古事記からの引用

自分の代わりに刀を降ろして解決
この刀の名前は佐士布都神(サジフツ神)といいます。
別名を甕布都神(ミカフツ神)。
別名を布都御魂(フツノミタマ)といいます。
この刀は石上神宮にあります。

垂仁天皇の治世
印色入日子命(イニシキノイリヒコ命=垂仁天皇の皇子)は灌漑用に血沼池狭山池日下の高津池を作りました。また鳥取の河上宮で、刀千本をつくり、石上神宮に奉納しました。

大坂に 遭ふや乙女を 道問へば(履中天皇)
それで(大和へと上って)行って、石上神宮(イソノカミジングウ)に着きました。

君主を殺すは義に反するが功に報いないは信に反する(履中天皇)
大和に上って到着して詔して言いました。
「今日はここに留まって、祓禊(ミソギ)をして、明日参上して神宮で拝礼しましょう」
それでその土地を名付けて遠つ飛鳥といいます。石上神宮(イソノカミカミノミヤ)に参り出て天皇に申し上げました。
「政(マツリゴト)は既に平定し終わって参上しました」
それで(履中天皇は)呼び寄せて話し合いました。
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日本書紀からの引用

第八段一書(二)安芸国の可愛川での大蛇との戦い
その大蛇を切った剣は蛇之麁正(オロチノアラマサ)といいます。これは今は石上神社(イソノカミ)にあります。

垂仁天皇(二十三)十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖
即位39年冬10月。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は茅渟(チヌ)の菟砥川上宮(ウトノカワカミノミヤ=大阪府阪南市玉田山?)いて、剣一千口を作りました。それでその剣を名付けて、川上部といいます。またの名は裸伴(アカハダガトモ)といいます。
石上神宮(イソノカミカムミヤ)に蔵(オサ)めました。
こののちに垂仁天皇は五十瓊敷命(イニシキノミコト)に命じて石上神宮の神宝を管理させました。

その一千口の太刀を忍坂邑(オシサカノヘキ)に蔵(オサ)めました。それで後に忍坂から移して石上神宮に蔵(オサ)めました。この時に神は尋ねると神は言いました。
「春日臣(カスガノオミ)の族(ヤカラ)の市河(イチカワ)に治めさせなさい」
それで市河に命じて治めさせました。
これが今の物部首(モノノベノオビト)の始祖です。

垂仁天皇(二十四)天神庫も樹梯のまにまに
それでついに大中姫命は、物部十千根大連(モノノベノトオチネノオオムラジ)に(神宝を)授けて、治めさせました。
物部連たちは今に至るまでに石上の神宝を納めているのはこれが所以です。昔、丹波国の田村(タノムラ)に人がいました。名を甕襲(ミカソ)といいます。甕襲の家に犬がいました。名を足往(アユキ)といいます。この犬は、牟士那(ムジナ)という名前の山の獣(シシ)を食い殺しました。それで獣(シシ)の腹に八尺瓊(ヤサカニ)の勾玉がありました。それで献上しました。この玉は、現在、石上神宮にあります。

履中天皇(五)刺領巾による仲皇子の殺害
すぐに刺領巾を殺しました。その日に倭に向かいました。夜中に石上神宮に詣でて太子に報告しました。弟王(イロドノミコ=瑞歯別皇子のこと)を呼び寄せて、厚く寵愛しました。それで村合屯倉(ムラハセノミヤケ)を与えました。この日に安曇連浜子(アズミノムラジハマコ)を捕らえました。

雄略天皇(十四)阿閉臣国見の讒言により栲幡皇女が自殺
そうなると子(=死んだ栲幡皇女は雄略天皇の娘)を殺してしまったことを悔いて、報復に国見(クニミ)を殺そうとしました。すると国見は石上神宮に逃げ隠れました。

天武天皇(三十九)紀臣阿閉麻呂の死・対馬の銀・伊勢神宮の神宝
秋8月3日。忍壁皇子(オサカベノミコ)を石上神宮(イソノカミノカミノミヤ)に派遣して、膏油(コウユ)で神宝(カンダカラ)を磨かせました。その日に勅(ミコトノリ)して言いました。
「元来、諸々の家が神府(ホクラ=神社の宝物庫)にため込んだ宝物は、今、皆、その子孫に返却しなさい」
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