宮地嶽神社

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宮地嶽神社

投稿日時:2017-06-02 11:24:50
漢字・読みミヤジダケジンジャ
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概要


住所
福岡県福津市宮司元町7-1
祭神
息長足比売命
勝村大神
勝頼大神
由緒
神功皇后が三韓征伐(朝鮮征伐)に向かう前に、山の山頂に祭壇を設けて海に向かって天神地祇に「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願したことが宮地嶽神社の創建の由来とされます。
ただし、古事記・日本書紀に「神功皇后の三韓征伐(朝鮮征伐)」の記述はあるんですが、宮地嶽神社っぽい記述はないです。
祭壇を設けた時に、祠掌…神職に命じられたのが「勝村」と「勝頼」という神功皇后の臣下です。筋からいえば、宮司は勝村大神・勝頼大神の子孫ということになります。このように神職者(神官)が「神」になるというのは珍しいことではないです。
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物語・由来

奥宮八社
第1番七福神社
第2番稲荷神社
第3番不動神社
第4番万地蔵尊
第5番恋の宮(濡髪大明神・淡島神社)
第6番三宝荒神
第7番水神社
第8番薬師神社
不動窟・不動神社・石室古墳
奥宮八社の全てを巡ると大願が叶うとされています。寛保1年(1741)の宮地嶽の山崩れにより初めて不動窟(宮地嶽古墳)が見つかりました。この不動窟が発見されたことで八社が出来たんです。
この不動窟は花崗岩の巨石を用いて築かれた横穴式石室は、全長約23m。日本最大級の大きさです。6世紀末から7世紀初期のものとされ、天武天皇の第一皇子・高市王子を産んだ尼子娘の父である宗像君徳善の墓ではないかと言われてます。

この時代の中央の石室でも引けを取らない大きさで、つまり「九州の勢力は相当に大きいものだった」とされ、九州には王朝があった証拠とされます。
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男坂・光の道

宮地嶽神社には男坂という海まで一直線の参道がありまして、これが呆れるほどに「一直線」です。この道の先に夕日が重なる2月と10月に「光の道」としてイベントをしている。
この光の道は太陽に合わせて山道を作ったのではなくて、宮地嶽神社は本来は「海の近く」にあったのが、侵食や海面の低下などで海岸線が遠のき、「結果的に」一直線の山道になったのではないか?と個人的に思っています。
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