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天武天皇(三十二)即位・后妃と子息子女
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二年春正月丁亥朔癸巳、置酒宴群臣。二月丁巳朔癸未、天皇命有司設壇場、卽帝位於飛鳥淨御原宮。立正妃爲皇后、后生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃、生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女、生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女、生舍人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘、生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大蕤娘、生一男二女、其一曰穗積皇子・其二曰紀皇女・其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女。次納胸形君德善女尼子娘、生高市皇子命。次宍人臣大麻呂女□媛娘、生二男二女、其一曰忍壁皇子・其二曰磯城皇子・其三曰泊瀬部皇女・其四曰託基皇女。乙酉、有勳功人等、賜爵有差。
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現代語訳
即位2年春1月7日。酒を置いて、群臣(マヘツキミタチ=臣下たち)と宴(トヨノアカリ=宴会)をしました。
2月27日。天皇は有司(ツカサ)に命じて、壇場(タカミクラ)を設けて、飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)に帝に即位しました。正妃(ムカヒメ=菟野皇女)を皇后としました。后は草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を産みました。
これ以前に皇后の姉の大田皇女(オオタノヒメミコ)を召し入れて妃としました。大来皇女(オオクノヒメミコ)と大津皇子(オオツノミコ)を産みました。
次の妃の大江皇女(オオエノヒメミコ)は長皇子(ナガノミコ)と弓削皇子(ユゲノミコ)を産みました。
次の妃の新田部皇女(ニッタベノヒメミコ)は舎人皇子(トネリノミコ)を産みました。
また夫人(オオトジ)である藤原大臣(フジワラノオオマエツキミ)の娘の氷上娘は、但馬皇女(タジマノヒメミコ)とうみました。
次の夫人である氷上娘の妹の五百重娘(イホヘノイラツメ)は、新田部皇子(ニッタベノミコ)をうみました。
次の夫人の蘇我赤兄大臣(ソガノアカエノオオマヘツキミ)の娘の大蕤娘(オオヌノイラツメ)は一人の男と二人の女を産みました。その一人目を穂積皇子(ホズミノミコ)と言います。その二人目を紀皇女(キノヒメミコ)といいます。その三人目を田形皇女(タカタノヒメミコ)といいます。
天皇は初めに、鏡王(カガミノオオキミ)の娘の額田姫王(ヌカタノオオキミ)を娶って、十市皇女(トオチノヒメミコ)を産みました。
次に胸形君徳善(ムナカタノキミトクゼン)の娘の尼子娘(アマコノイラツメ)を召し入れて、高市皇子命(タケチノミコノミコト)を産みました。
次に宍人臣大麻呂(シシヒトノオミオオマロ)の娘のカジ媛娘(カジヒメノイラツメ…カジは木偏に殻)は二人の男と二人の女を産みました。その一人目が忍壁皇子(オサカベノミコ)といいます。その二人目を磯城皇子(シキノミコ)といいます。その三人目を泊瀬部皇女(ハツセベノヒメミコ)といいます。その四人目を託基皇女(タキノヒメミコ)といいます。
1月29日。勲功のある人たちに、爵位を与え、品を与えました。
2月27日。天皇は有司(ツカサ)に命じて、壇場(タカミクラ)を設けて、飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)に帝に即位しました。正妃(ムカヒメ=菟野皇女)を皇后としました。后は草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)を産みました。
これ以前に皇后の姉の大田皇女(オオタノヒメミコ)を召し入れて妃としました。大来皇女(オオクノヒメミコ)と大津皇子(オオツノミコ)を産みました。
次の妃の大江皇女(オオエノヒメミコ)は長皇子(ナガノミコ)と弓削皇子(ユゲノミコ)を産みました。
次の妃の新田部皇女(ニッタベノヒメミコ)は舎人皇子(トネリノミコ)を産みました。
また夫人(オオトジ)である藤原大臣(フジワラノオオマエツキミ)の娘の氷上娘は、但馬皇女(タジマノヒメミコ)とうみました。
次の夫人である氷上娘の妹の五百重娘(イホヘノイラツメ)は、新田部皇子(ニッタベノミコ)をうみました。
次の夫人の蘇我赤兄大臣(ソガノアカエノオオマヘツキミ)の娘の大蕤娘(オオヌノイラツメ)は一人の男と二人の女を産みました。その一人目を穂積皇子(ホズミノミコ)と言います。その二人目を紀皇女(キノヒメミコ)といいます。その三人目を田形皇女(タカタノヒメミコ)といいます。
天皇は初めに、鏡王(カガミノオオキミ)の娘の額田姫王(ヌカタノオオキミ)を娶って、十市皇女(トオチノヒメミコ)を産みました。
次に胸形君徳善(ムナカタノキミトクゼン)の娘の尼子娘(アマコノイラツメ)を召し入れて、高市皇子命(タケチノミコノミコト)を産みました。
次に宍人臣大麻呂(シシヒトノオミオオマロ)の娘のカジ媛娘(カジヒメノイラツメ…カジは木偏に殻)は二人の男と二人の女を産みました。その一人目が忍壁皇子(オサカベノミコ)といいます。その二人目を磯城皇子(シキノミコ)といいます。その三人目を泊瀬部皇女(ハツセベノヒメミコ)といいます。その四人目を託基皇女(タキノヒメミコ)といいます。
1月29日。勲功のある人たちに、爵位を与え、品を与えました。
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解説
7月23日に敵方のトップである大友皇子が自殺。
9月に天武天皇が東国から倭京へと帰ってきて、このページが1月の記述です。
ただここで描かれている子息子女は、壬申の乱の前に生まれた人です。ややこしいですね。
9月に天武天皇が東国から倭京へと帰ってきて、このページが1月の記述です。
ただここで描かれている子息子女は、壬申の乱の前に生まれた人です。ややこしいですね。
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天武天皇(日本書紀29)の表紙へ
- Page1 天武天皇(三十二)即位・后妃と子息子女
- Page2 天武天皇(三十三)亀石郡が白雉で捕えられる・川原寺で一切経を写経
- Page3 天武天皇(三十四)大来皇女を伊勢神宮に
- Page4 天武天皇(三十五)沙宅昭明の死・新羅と百済の使者
- Page5 天武天皇(三十六)紀臣閉麻呂の褒賞・高麗と新羅の賀騰極使・耽羅の使者の帰国
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- Page7 天武天皇(三十八)大嘗に仕える中臣と忌部・高市大寺を造る司・小僧都と佐官
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