天武天皇(三十八)大嘗に仕える中臣と忌部・高市大寺を造る司・小僧都と佐官

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天武天皇(三十八)大嘗に仕える中臣と忌部・高市大寺を造る司・小僧都と佐官

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原文

十二月壬午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等・幷播磨・丹波二国郡司・亦以下人夫等、悉賜祿、因以郡司等各賜爵一級。戊戌、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。(今大官大寺、是。)時、知事福林僧、由老辭知事、然不聽焉。戊申、以義成僧、爲小僧都。是日、更加佐官二僧。其有四佐官、始起于此時也。是年也、太歲癸酉。

現代語訳

(即位2年)12月5日。大嘗(オオニエ=大嘗祭=天皇即位後の初の収穫祭)に仕える中臣・忌部と神官の人たちと、播磨・丹波の二つの国の郡司(コオリノミヤツコ)、またそれ以下の人夫たち全員に禄(モノ)を与えました。郡司たちにそれぞれ爵位を1級与えました。

12月17日。小紫(ショウシ)の美濃王・小錦下(ショウキンゲ)の紀臣訶多麻呂(キノオミカタマロ)を、高市大寺(タケチノオオデラ=元の百済大寺、後世の大安寺)を造る司(ツカサ=役人)に拝命しました。
今の大官大寺(ダイカンダイジ)はこれです。

この時に知事の福林僧(フクリンノホウシ)は老いたことを理由に知事を辞任しました。しかし、聞き入れられませんでした。

12月27日。義成僧(ギジョウホウシ)を小僧都(ショウソウズ=僧都は僧を束ねる役職の名前)としました。この日にさらに佐官(サカン=僧を管理する役所の役人の名前)に2人の僧を加えました。その四人の佐官(サカン)がいるのは、この時が始まりです。この年、太歲癸酉。
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解説

僧都
僧都には大僧都と小僧都とがあったようです。僧都はお坊さんを統括する役職です。で、それを天武天皇が任命したということは、僧は朝廷の管轄下にあるということです。そんなのどーでもいい、ような気がしますが。普通は、仏教や宗教は、政府の管轄下には無いんですよ。逆に、宗教が政府に「国の統括権」を授けることがあるくらいです。

ということは日本人にとって仏教というのは政府の意図によって広められたということです。

私は穢れ対策だと考えています。日本人は穢れを嫌うために、動物の死体を嫌いました。死体の毛から造る「筆」も同様に非常に嫌いました。だから文字はとうの昔に日本に入っていたのですが、「読み書き」を使えませんでした。

そこで穢れの概念のない仏教が必要だった。仏教を全国に広めることは、日本中で「読み書き」が出来るようになる基礎を広げるということです。
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