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天武天皇(三十四)大来皇女を伊勢神宮に
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夏四月丙辰朔己巳、欲遣侍大來皇女于天照太神宮、而令居泊瀬齋宮。是、先潔身、稍近神之所也。五月乙酉朔、詔公卿大夫及諸臣連幷伴造等曰「夫初出身者、先令仕大舍人。然後、選簡其才能、以充當職。又婦女者、無問有夫無夫及長幼、欲進仕者、聽矣。其考選、准官人之例。」癸丑、大錦上坂本財臣卒。由壬申年之勞、贈小紫位。
現代語訳
(即位2年)夏4月14日。大来皇女(オオクノヒメミコ)を天照太神宮(アマテラスオオカミノミヤ)に派遣し、仕えさせようとして、泊瀬斎宮(ハツセノイツキノミヤ)に居らせました。まずは身を清めて、次第に神に近づいていく場所です。
5月1日。公卿大夫(マヘツキミタチ=臣下たち)と諸々の臣・連と伴造(トモノミヤツコ)たちに詔(ミコトノリ)して言いました。
「初めてその身を差し出し、神宮に仕える者は、まず大舎人(オオトネリ=雑務に従事する者)に仕えさせなさい。そうして後にその才能で選んで、当職(カナワムツカサ)に当てなさい。また婦女は夫があるか居ないか、また、その年長か幼年かであることは問わず、進んで仕えたいと思っている者がいれば、聞き入れなさい。その選考基準は官人(ツカサアルヒト)の例に習ってください」
5月29日。大錦上(ダイキンジョウ)の坂本財臣(サカモトノタカラノオミ)が亡くなりました。壬申の年の功労により、小紫位(ショウシノクライ)を贈りました。
5月1日。公卿大夫(マヘツキミタチ=臣下たち)と諸々の臣・連と伴造(トモノミヤツコ)たちに詔(ミコトノリ)して言いました。
「初めてその身を差し出し、神宮に仕える者は、まず大舎人(オオトネリ=雑務に従事する者)に仕えさせなさい。そうして後にその才能で選んで、当職(カナワムツカサ)に当てなさい。また婦女は夫があるか居ないか、また、その年長か幼年かであることは問わず、進んで仕えたいと思っている者がいれば、聞き入れなさい。その選考基準は官人(ツカサアルヒト)の例に習ってください」
5月29日。大錦上(ダイキンジョウ)の坂本財臣(サカモトノタカラノオミ)が亡くなりました。壬申の年の功労により、小紫位(ショウシノクライ)を贈りました。
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解説
天皇の娘の皇女は、伊勢神宮に仕えます。これを斎宮と言います。天武天皇の大来皇女の前にも、同様の斎宮の記述はあるのですが、「正式な制度」はこの大来皇女が最初、とされます。
ということは伊勢神宮はこれ以前は大和朝廷とは「関係があった」としても、「大和朝廷の影響下ではなかった」のではないかと思います。そしてこれからは、大和朝廷と伊勢神宮は深い関係を持つようになります。おそらく、この時に伊勢神宮の天照大御神(アマテラス)が天皇の祖先として設定されたのでしょう。
壬申の乱の途中に急に「アマテラス」が出てきていますし。
ということは伊勢神宮はこれ以前は大和朝廷とは「関係があった」としても、「大和朝廷の影響下ではなかった」のではないかと思います。そしてこれからは、大和朝廷と伊勢神宮は深い関係を持つようになります。おそらく、この時に伊勢神宮の天照大御神(アマテラス)が天皇の祖先として設定されたのでしょう。
壬申の乱の途中に急に「アマテラス」が出てきていますし。
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- Page1 天武天皇(三十二)即位・后妃と子息子女
- Page2 天武天皇(三十三)亀石郡が白雉で捕えられる・川原寺で一切経を写経
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- Page4 天武天皇(三十五)沙宅昭明の死・新羅と百済の使者
- Page5 天武天皇(三十六)紀臣閉麻呂の褒賞・高麗と新羅の賀騰極使・耽羅の使者の帰国
- Page6 天武天皇(三十七)難波で金承元をもてなす・大郡で高麗の邯子と新羅の薩儒をもてなす
- Page7 天武天皇(三十八)大嘗に仕える中臣と忌部・高市大寺を造る司・小僧都と佐官
- Page8 天武天皇(三十九)紀臣阿閉麻呂の死・対馬の銀・伊勢神宮の神宝
- Page9 天武天皇(四十)即位の祝いの献上品
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