香椎宮

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香椎宮

投稿日時:2017-06-01 22:07:34
漢字・読みカシイノミヤ
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概要

主祭神
仲哀天皇(第14代)
神功皇后
配祀神
応神天皇(第15代)
住吉大神
住所
〒813-0011福岡県福岡市東区香椎4-16-1
ご利益
家内安全、厄除、開運、商売繁盛、初宮詣、七五三詣、十三詣、安産、交通安全、身体健康、病気平癒、神恩感謝、社運隆昌、必勝祈願、安全祈願、合格祈願、方除、就職祈願、縁結び祈願、結婚奉告祭、入学奉告祭、成人祝い、年祝い、学業成就、清祓、旅行安全、心願成就、厄除御礼
摂社
武内神社、巻尾神社
末社
稲荷神社、鶏石神社、朽瀬神社、平野神社、印鑰神社、高倍神社、濱男神社、御島神社、早辻神社、辨財天社
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歴史

古事記や日本書紀で見られる「志比宮(カシイ)・橿日宮(カシヒノミヤ)」の「カシイ」とは仲哀天皇が滞在し崩御した場所です。現在の香椎宮は社伝によれば「宗廟」で「香椎廟」と呼ばれていました。宗廟というのは「死んだ人を祀る場所」です。

香椎宮の社記『香椎宮編年記』によれば、養老7年(723年)2月6日に神功皇后の神託があって造営し始め、神亀元年(724年)12月20日に廟として創建されたとします。仲哀天皇9年時点ですでに神功皇后によって仲哀天皇廟が建てられたとした上で、さらに養老7年の皇后の託宣により神亀元年に皇后廟も建てたので、これら二廟をもって創建とし「香椎廟」と総称された、としている。
社伝が本当かどうかはともかくとして、この辺りが特殊な土地であり、信仰があったことは間違いないです。
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歌と香椎宮

香椎宮・香椎廟が資料として初めて出るのは万葉集。神亀5年(728年)11月に香椎宮に参詣した以下の三人が歌を歌っています。
大宰帥大伴旅人「いざ子ども 香椎の潟に 白栲の 袖さへ濡れて 朝菜摘みてむ」
大宰大弐小野老「時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな」
豊前守宇努男人「行き帰り 常に我が見し 香椎潟 明日ゆ後には 見むよしもなし

三人が「香椎潟」と言っている以上は、香椎のところは当時…728年以前には「干潟」だったのです。海に近い場所にあり、神社は海に面していたのかもしれない。

新古今和歌集(1210年成立)にも歌があります。
読人不知「千早振 かしひの宮の あや杉は 神のみそぎに たてる成けり」

この時は「潟」についての記述がありません。だからといって「潟」がなかったとは言えませんが、侵食でなくなったか、海面が下がって陸になった、なんてこともあるかもしれません。
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宗廟について

香椎廟は「宗廟」だったのではないか?と言われます。ところで、宗廟というのは儒教の考えで、権力者が先祖を祀る施設のことです。これは権力者の根拠が「先祖が権力者だから」となっているから建てるものです。宗廟が権力の根拠。となると神功皇后・仲哀天皇の存在が権力の根拠だったということになります。後世の例だと日光東照宮です。徳川家康が天下を取ったことが徳川家が将軍である根拠だから日光東照宮には価値があるし、大枚を投じて建てるわけです。

香椎宮は社伝によれば最初は仲哀天皇・神功皇后のためのものだったのですが、いつのまにか神功皇后のものになったと言います。仮にこれが本当だとすると、香椎廟は神功皇后を特別視して、神功皇后を祀ることで、この土地を治める根拠としていた、のかもしれません。
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引用

古事記からの引用
穴門の豊浦、筑紫の訶志比宮
帯中日子天皇(タラシナカツヒコ=仲哀天皇)は穴門の豊浦宮(トユラ)と筑紫の訶志比宮(カシイ)で天下を治めました。

神がかる、オキナガタラシヒメ
オキナガタラシヒメは、仲哀天皇が筑紫の香椎宮でクマソ討伐をしようとしていたとき、神がかりました。

日本書紀からの引用
仲哀天皇(九)伊覩県主の祖先、五十迹手と伊覩の地名説話
それで(即位8年1月の)21日に灘県(ナダアガタ=福岡県博多地方)に到着して、橿日宮(カシヒノミヤ)に滞在しました。

神功皇后(一)出自と夫の死後の対応
(仲哀天皇)即位9年春2月に足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)が筑紫の橿日宮(カシヒノミヤ)で崩御しました。

神功皇后(四)御笠と安の地名説話と田油津媛
(仲哀天皇即位9年3月)17日に皇后は熊鷲(クマワシ)を撃とうと思い、橿日宮(カシヒノミヤ)から松峽宮(マツオノミヤ=現在の福岡県朝倉軍三輪町粟田)に移りました。そのときに飄風(ツムジカゼ)がたちまち起こって御笠(ミカサ)が落とされました。そこでその時代の人はその場所を御笠(ミカサ)と呼んでいました。

神功皇后(十三)沙麼縣主の祖先の内避高国避高松屋種に神が
ある書によると…
足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト=仲哀天皇)は筑紫の橿日宮(カシヒノミヤ)に居ました。ここに神が現れて、沙麼縣主(サバノアガタヌシ)の祖先の内避高国避高松屋種(ウチツヒコクニツヒコマツヤタネ)に神がかって、天皇に教えて言いました。
「御孫尊(ミマノミコト=天孫=ここでは仲哀天皇のこと)が、もし宝の国(=朝鮮半島もしくは新羅)を得たいと思うのならば、現実に授けよう」
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