伊覩県主の祖先、五十迹手と伊覩の地名説話

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仲哀天皇(九)伊覩県主の祖先、五十迹手と伊覩の地名説話

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原文

又筑紫伊覩縣主祖五十迹手、聞天皇之行、拔取五百枝賢木、立于船之舳艫、上枝掛八尺瓊、中枝掛白銅鏡、下枝掛十握劒、參迎于穴門引嶋而獻之、因以奏言「臣敢所以獻是物者、天皇、如八尺瓊之勾以曲妙御宇、且如白銅鏡以分明看行山川海原、乃提是十握劒平天下矣。」天皇卽美五十迹手、曰「伊蘇志。」故、時人號五十迹手之本土曰伊蘇国、今謂伊覩者訛也。己亥、到儺縣、因以居橿日宮。

現代語訳

また、筑紫の伊覩縣主(イトノアガタヌシ=伊覩は現在の福岡県糸島郡)の祖先の五十迹手(イトテ)は天皇が来るのを聞いて、五百枝賢木(イホエノサカキ)を抜き取って、船の舳艫(トモエ)に立てて、上枝(カミツエ)には八尺瓊(ヤサカニ)を掛け、中枝(ナカツエ)には白銅鏡(マスミノカガミ)を掛け、下枝(シモツエ)には十握剣(トツカノツルギ)を掛け、穴門(アナト=長門=現在の山口県)の引嶋(ヒコシマ)に出迎えました。それで言いました。
「臣(ヤツカレ=部下=自分のこと)は敢えて、この物を献上する理由は、天皇は八尺瓊(ヤサカニ=勾玉)の勾(マガ=曲が)っているように、曲妙(タエ)に天下を治め、また白銅鏡(マスミノカガミ)のように分明(アキラカ)に山川海原を看て、この十握剣をひっさげて天下を平定していただきたいと思っているからです」
天皇は五十迹手(イトテ)を褒め称えて
「伊蘇志(イソシ=勤)」
といいました。それでその時代の人は五十迹手(イトテ)の本土を名付けて「伊蘇国(イソノクニ)」といいます。今、伊覩(イト)というのは訛ったからです。

それで(即位8年1月の)21日に灘県(ナダアガタ=福岡県博多地方)に到着して、橿日宮(カシヒノミヤ)に滞在しました。
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解説

同じ記述が
仲哀天皇(七)筑紫の岡県主の祖先の熊鰐」では岡県主の祖先の熊鰐(ワニ)が天皇を周芳(スワ=山口県防府市)で出迎えるのに、ほぼ同じ祭祀を行っています。ほぼ、というのは掲げるものの枝の順番が違うってことです。

順番が違うということは「文化」に違いがあるということであり、それなりに歴史があるということと、この二つの氏族がそれなりの権力を持っていたからかと思われます。
魏志倭人伝との関係
五十迹手(イトテ)の本国である伊蘇国(イソノクニ)が鈍って伊覩(イト)という地名となり、それが現在の福岡県に「糸島郡」という名前で残っています。この「伊覩」がどうも魏志倭人伝の「伊都国」ではないかと思われます。

次に灘県の「ナダ」の「ナ」は同じく魏志倭人伝に出てくる「奴国」の「ナ」、後漢書の「倭奴国」の「ナ」、志賀島の金印の「漢倭奴国」の「ナ」と同意義だと思われ、同じ国かと思われます。

ちなみに魏志倭人伝、つまり三国志の成立は3世紀後半。仲哀天皇は4世紀の前半か中盤の天皇なので、辻褄は合う。後漢書の成立は5世紀。ただし記述内容は後漢書の方が古い。
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