大海を望み見ても国は無い

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仲哀天皇(十一)大海を望み見ても国は無い

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原文

天皇聞神言、有疑之情、便登高岳、遙望之大海、曠遠而不見国。於是、天皇對神曰「朕周望之、有海無国、豈於大虛有国乎。誰神徒誘朕。復我皇祖諸天皇等、盡祭神祇、豈有遺神耶。」時神亦託皇后曰「如天津水影、押伏而我所見国、何謂無国、以誹謗我言。其汝王之、如此言而遂不信者、汝不得其国。唯今皇后始之有胎、其子有獲焉。」然天皇猶不信、以强擊熊襲、不得勝而還之。

現代語訳

天皇は神のことばを聞いて、疑いの情(ココロ)を持ちました。すぐに高い丘に登って、遥かに大海を望み見ると、ただ海が広がっていて国なんて見当たりません。そこで天皇は神に答えました。
「わたしが周囲を見たところ、海しかありません。国はありません。何にもないところに国なんてありましょうか。どこの神がイタズラに私を欺こうとしているのか。わたしの祖先の天皇たちはあらゆる神祇(アマツカミクニツカミ)を祀ったのです。どうして祀っていない神がいるというのでしょうか」
その時、神はまた皇后にかかって言いました。
「天津水影(アマツミズカゲ=天の水の影=神が天にいてその池などから地上を見下ろしている意味)のように、押し伏せてわたしが見ている国を、『国は無い』と言い、わたしのことばを誹謗(ソシリ)するというのか。汝王(イマシミコト=天皇のこと)がそう言って、ついに(言葉を)信用しないならば、お前はその国(=朝鮮半島)を得られないだろう。ただし、いま、皇后は有胎(ハラ)んだ。その子は得られるだろう」
しかし天皇はそれでも信じず、強引に熊襲(クマソ)を撃とうとしました。勝つことは出来ず、帰還しました。
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解説

仲哀天皇の反抗
ここでは神功皇后ですが、古代では巫女が神を体に神を下ろして、それによって神託を得ます。となると、「ある意味では」巫女の言うことが神の意志ということになります。その代表が邪馬台国の卑弥呼です。でも、巫女がマジにトランス状態になって神掛ることもあります。そういう巫女の方がリアリティがあって巫女に適していると思われたはずです。そうなると、巫女が権力者ということにはなりませんが、完全に神掛ると何を言っているのか分からない精神状態になるものですから、困ります。そこで、神がかった巫女のめちゃくちゃな言葉を「翻訳する」人物が必要になります。それが審神者(サニワ=沙庭)です。この審神者にあたる人物が武内宿禰(タケノウチノスクネ)でした。ちなみに仲哀天皇神功皇后が神を下ろしているときに「琴を弾いていた」と古事記にはあります。

そういうことを考えるとこの時代の権力者は「武内宿禰」だった、のかもしれません。
もう一つの事情
他のページでも散々書きましたが…
ヤマトは貿易立国でした。その貿易を円滑に行うためのツールが米でした。米を「税金」として徴収していたのもありますが、米を貿易をする際の「共通価値」としていたのではないかと思うのです。その稲作を伝播した象徴が「ヤマトタケル仲哀天皇の父)」であり「白鳥」です。ところが九州南部では火山灰のために水はけが良すぎて「米作」ができない。それに鹿児島は沖縄や台湾を通じて中国やインドやもっと遠方とも交易があったのでしょう。だから大和朝廷に参加しなくても問題がなかった。しかし大和朝廷としては、九州南部が欲しい。そこから文化が入ってくるからです。

ひっくり返すと、当時の日本は九州南部が「貿易の重要拠点」であり、朝鮮半島は「無意味」という認識だった。朝鮮半島は土地が痩せていて、作物が実りづらいし、一部を除くと寒くて米作も出来ない。魏志東夷伝を読んでも、朝鮮半島が日本より発展しているとは思えない。だから仲哀天皇はあくまで九州南部を目指そうとした。そこに「朝鮮半島を通り、中国と貿易をするべきだ」と提案したのが「住吉大神」を信奉する「津守氏」と武内宿禰だったのでしょう。
仲哀天皇は暗殺されたか
そういう認識も可能です。なんら物証も無ければ、示唆するものも無いですが、当時の天皇に強い権力があったとは考えづらく、暗殺されたとしても不思議ではないです。ただ、古代のことですから、若くして亡くなったからといって暗殺とは言い切れず、トラブル(戦死か病死)によって「九州南部から朝鮮へ」政策を転換したということも十分あることです。
以下のページでは異伝という形ですが、仲哀天皇が熊襲征伐の途中で死亡したと書かれています。
参考
仲哀天皇(十二)異伝によると…自ら熊襲を撃ちましたが、賊の矢に当たって崩御しました

もう一つ、仲哀天皇はヤマトタケルの子で、ヤマトタケルも東西の交易路を開拓した最後は神の怒りを買って呪い殺されてしまいます。仲哀天皇もほぼ同じ経緯です。この時代には「そういうストーリー」が英雄の定番だったのではないか?とも思うのです。
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