穴門の豊浦宮(トユラノミヤ)

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穴門の豊浦宮

投稿日時:2018-03-04 14:58:45
漢字・読みアナトノトユラノミヤ
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穴門の豊浦宮(トユラノミヤ)

穴門の豊浦宮(トユラノミヤ)は古事記・日本書紀に登場する地名。仲哀天皇が滞在した宮で、仲哀天皇が死んだ後に殯を行った土地。現在の「忌宮神社(下関市)」かその周辺のことだと思われます。

推古天皇は豊浦宮で即位していますが、これは奈良県高市郡明日香村の地名です。蘇我蝦夷は豊浦大臣とも呼ばれていまして、これは豊浦に住んでいたからです。ただ、豊浦という地名はどー考えても「港」に付けられる名前で奈良の盆地でつく名前ではないので、下関の豊浦と何か関わりがあってついた名前なのかもしれないです。
もちろん、川や池の地形を表していて、特殊な名前じゃない可能性もある(こっちの方が高いと思う)。
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引用

古事記からの引用
穴門の豊浦、筑紫の訶志比宮
帯中日子天皇(タラシナカツヒコ=仲哀天皇)は穴門の豊浦宮(トユラ)と筑紫の訶志比宮(カシイ)で天下を治めました。


日本書紀からの引用
仲哀天皇(十二)異伝によると…自ら熊襲を撃ちましたが、賊の矢に当たって崩御しました
密かに天皇の遺体を収めて、武内宿禰に授けて、海路から穴門(アナト=長門=現在の山口県)へと移りました。そして豊浦宮(トユラノミヤ)で殯(モガリ)して、无火殯斂(ホナシアガリ=火を焚かない秘密のモガリ)をしました。

神功皇后(十七)赤石に山陵を作る
新羅を討った明くる年(=仲哀天皇即位10年)の春2月に、皇后は群卿(マヘツノキミタチ)と百僚(ツカサツカサ)を率いて穴門豊浦宮(アナトノトユラノミヤ)に移動しました。それで仲哀天皇の喪(モガリ)を収めて、海路(ウミツジ)から京(ミヤコ=ここでは大和)へと向かいました。

推古天皇(一)出自と即位の経緯
冬12月8日に皇后は豊浦宮(トユラノミヤ=現在の奈良県高市郡明日香村豊浦)で天皇に即位しました。
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