忌宮神社(下関市)

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忌宮神社(下関市)

漢字・読みイミノミヤジンジャ
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概要

祭神仲哀天皇神功皇后
仲哀天皇がクマソ征伐の際に7年間、宮を置いた場所。豊浦宮(トユラノミヤ)があったところに建てたのが忌宮神社です。
神功皇后も祀られていますが、これは聖武天皇の時代、神亀5年に筑前から神宮皇后を勧請したからです。それまでは仲哀天皇1柱だったわけです。
HP http://iminomiya-jinjya.com

物語・由来


仲哀天皇は豊浦宮で政治を行いましたが、九州で死んでしまいました。この死の事実は隠されたまま、豊浦宮(忌宮神社)の近くの長府侍町土肥山で行い、仮の埋葬…殯(モガリ)をしています。
その殯も无火殯斂(ホナシアガリ)という特殊なものだったと書いています。

現在の感覚では「忌」というのは悪いイメージですが、そもそもの忌としては「死者を弔う」という意味であり、忌宮神社という名前はそこから来ています。ちなみに忌宮という名前は、聖武天皇の時代になって、神功皇后と合祀して、ついたもので、それ以前の名前は明記されていませんが、まぁ、豊浦宮だったと考えるべきかと。
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引用

穴門の豊浦、筑紫の訶志比宮
帯中日子天皇(タラシナカツヒコ=仲哀天皇)は穴門の豊浦宮(トユラ)と筑紫の訶志比宮(カシイ)で天下を治めました。

仲哀天皇(六)皇后が酒を鯽魚に注ぐと鯽魚はすぐに酔って浮かびました
夏6月10日。仲哀天皇は豊浦津(トユラノツ=山口県豊浦郡)に泊まりました。また、皇后(=神功皇后)は角鹿(ツヌガ=福井県敦賀)から出発して、渟田門(ヌタノミナト=未詳)に到着して船上(ミフネ)で食事をしました。

仲哀天皇(十二)異伝によると…自ら熊襲を撃ちましたが、賊の矢に当たって崩御しました
密かに仲哀天皇の遺体を収めて、武内宿禰に授けて、海路から穴門(アナト=長門=現在の山口県)へと移りました。そして豊浦宮(トユラノミヤ)で殯(モガリ)して、无火殯斂(ホナシアガリ=火を焚かない秘密のモガリ)をしました。

神功皇后(十七)赤石に山陵を作る
新羅を討った明くる年の春2月に、神功皇后は群卿(マヘツノキミタチ)と百僚(ツカサツカサ)を率いて穴門豊浦宮(アナトノトユラノミヤ)に移動しました。それで仲哀天皇の喪(モガリ)を収めて、海路(ウミツジ)から京(ミヤコ=ここでは大和)へと向かいました。

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