敦賀

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敦賀

投稿日時:2019-05-25 14:17:16
漢字・読みツルガ
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敦賀とは

敦賀は古事記に登場する角鹿(ツヌガ)の現在の地名。
福井県敦賀市。
敦賀が古事記で登場するのは応神天皇のところから。日本書紀で登場するのは垂仁天皇の段からですが、これは応神天皇の母親である神功皇后の先祖が敦賀の「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」であるため。古事記と日本書紀では応神天皇の名前と敦賀の神が名前を交換した経緯が書かれていることから、どうも神功皇后・応神天皇の時代に敦賀が大和朝廷に参加したのではないか?と思われます。
●名前交換が本当ならば、応神天皇の幼名は「イザサワケ」となり、敦賀の神の名前が「ホムダワケ」になる。イザサワケは稲霊の名前っぽいので、天皇の名前としては妥当に思う。
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物語・由来

敦賀の名前の由来
古事記によれば浜に打ち上げられたイルカの死体の血の匂いから「血浦(チウラ)」→「ツヌガ」となったとしているが、日本書紀では「角のある人がいた」ことから「ツヌガ」になったとある。
塩の産地
武烈天皇の時代に、平群真鳥が謀反の疑いをかけられて誅殺されたとき、塩に呪いをかけたが、敦賀の塩にだけ呪いをかけ忘れた。そのため、天皇が食べる塩は敦賀のものだけになった、とか。

古事記からの引用

伊奢沙和気大神が夢に出る
建内宿禰は皇太子(=ホンダワケ【応神天皇】)を連れて禊(ミソギ)をしようと、近江や若狭を巡り、越前の敦賀(ツルガ=角鹿)に仮宮を建てて、滞在していました。
その敦賀(角鹿)の土地にいる伊奢沙和気大神(イザサワケ)が建内宿禰の夢に出て言いました。

我に御食の魚を給ひき
またイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を「血浦」といいます。現在は「都奴賀(ツヌガ=敦賀)」といいます。

この蟹や……
この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿(ツヌガ=敦賀)の蟹 横去らふ
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日本書紀からの引用

垂仁天皇(三)任那の由来
ある書によると…
御間城天皇(ミマキスメラミコト崇神天皇)の時代に、額に角のある人が、一艘の舟に乗ってやってきて、越国の笥飯浦(ケヒノウラ)に停泊しました。その土地を「角鹿(ツヌガ)」と名付けました。

仲哀天皇(四)皇后と妃とその子息
2月6日に角鹿(ツヌガ=福井県敦賀市)に行きました。すぐに行宮(カリミヤ=旅行先の滞在場所の宮)を建てて滞在しました。これを笥飯宮(ケヒノミヤ)といいます。その月に淡路屯倉(アワジノミヤケ)を定めました。

仲哀天皇(五)德勒津宮への巡狩と熊襲の反抗
天皇はそれで熊襲国を討とうとしました。すぐに德勒津(トコロツ)を出発して、浮海(ミフネ)して穴門(アナト=山口県豊浦郡)に行きました。その日に使いを角鹿(ツヌガ=敦賀)に派遣し、皇后に詔して伝えました。

仲哀天皇(六)皇后が酒を鯽魚に注ぐと鯽魚はすぐに酔って浮かびました
(即位2年)夏6月10日。天皇は豊浦津(トユラノツ=山口県豊浦郡)に泊まりました。また、皇后(=神功皇后)は角鹿(ツヌガ=福井県敦賀)から出発して、渟田門(ヌタノミナト=未詳)に到着して船上(ミフネ)で食事をしました。

神功皇后(二十七)此の御酒は 吾が神酒ならず
即位13年春2月8日。武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて太子(ヒツギノミコ=応神天皇)を連れて角鹿(ツヌガ=現在の福井県敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオミカミ)に参拝に行きました。
17日。太子は角鹿から帰りました。

応神天皇(一)腕の肉の形が鞆に似ている
ある伝によると…
応神天皇は太子となり、越国(コシノクニ=現在の北陸)に行き、角鹿(ツヌガ=敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を拝祭(オガ)み、奉りました。その時、大神と太子とが名前を交換しました。それで大神を名付けて、來紗別神(イザサワケノカミ)と言うようになりました。

武烈天皇(八)大伴金村による真鳥の誅殺と塩の呪い
呪いを掛けたときに、ただ角鹿海(ツヌガノウミ=敦賀の海)の塩をのみ忘れて呪いを掛けませんでした。それで角鹿(ツヌガ=敦賀)の塩は天皇の所食(オモノ=食料)として、他のウミの塩は天皇の所忌(オオミイミ=食べられないもの)としました。

持統天皇(四十二)班田大夫の派遣・白蛾を角鹿郡で捕らえる
9月26日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「白蛾(シロキヒヒル)を角鹿郡(ツヌガノコオリ)の浦上(ウラカミ)の浜で捕らえました。封(ヘヒト)を笥飯神(ケヒノカミ)に20戸増しました。以前のに追加する」
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