仲哀天皇(四)皇后と妃とその子息

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仲哀天皇(四)皇后と妃とその子息

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原文

二年春正月甲寅朔甲子、立氣長足姫尊爲皇后。先是、娶叔父彦人大兄之女大中姫爲妃、生麛坂皇子・忍熊皇子。次娶來熊田造祖大酒主之女弟媛、生譽屋別皇子。二月癸未朔戊子、幸角鹿、卽興行宮而居之、是謂笥飯宮。卽月、定淡路屯倉。

現代語訳

即位2年春1月11日。氣長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)を皇后としました。これ以前に叔父の彦人大兄(ヒコヒトノオオエ)の娘の大中姫(オオナカヒメ)を娶って妃としていました。麛坂皇子(カゴサカノミコ)・忍熊皇子(オシクマノミコ)を生みました。次に來熊田造(ククマタノミヤツコ)の祖先の大酒主(オオサカヌシ)の娘の弟媛(オトヒメ)を娶って、譽屋別皇子(ホムヤワケノミコ)を生みました。

2月6日に角鹿(ツヌガ=福井県敦賀市)に行きました。すぐに行宮(カリミヤ=旅行先の滞在場所の宮)を建てて滞在しました。これを笥飯宮(ケヒノミヤ)といいます。その月に淡路屯倉(アワジノミヤケ)を定めました。
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解説

神功皇后登場
氣長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)が登場。この姫が後の神功皇后と呼ばれる女傑となります。神功皇后の名前は「尊」という尊称が当てられています。この尊は天皇とその血統にあるものにしか付けられない名前です。まぁ、後の功績を考えれば、尊という尊称はなんら不思議ではありませんが。
敦賀と淡路
敦賀に行き、そこに宮を作る。それと淡路に直轄領の屯倉を作る。敦賀は日本海側の優良な港。淡路島は昔からの航行の要衝です。敦賀は北陸方面に大和朝廷が勢力を伸ばしたという意味かと思われます。勢力を伸ばしたといっても「支配」したという意味よりは、「取引を活発にした」という意味です。淡路はおそらく「四国」でしょう。
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