建内宿禰(タケシウチノスクネ)

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建内宿禰

投稿日時:2018-04-15 11:47:09
漢字・読みタケシウチノスクネ
別名武内宿禰・タケノウチノスクネ・タケウチノスクネ
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建内宿禰

まとめ
●古事記・日本書紀に登場する人物。
●古事記によれば成務天皇から見られ、仁徳天皇まで仕えている。長命とされる。
●名前からすれば「武力」の人物だが、古事記に描かれる人物像は「文人」という印象(ただし日本書紀では忍熊王との合戦が描かれている)。

概要

建内宿禰(タケシウチノスクネ)は古事記に登場する人物名。日本書紀では武内宿禰(タケノウチノスクネ)。このページでは古事記の建内宿禰の記述についてまとめています。祖父は孝元天皇(8代)。成務天皇(14代)の大臣として登場し、仁徳天皇(16代)まで名前が見られるので、成務天皇・仲哀天皇(と神功皇后)・応神天皇・仁徳天皇に仕えている。日本書紀では景行天皇(13代)から仕えている様子が書かれているので、大臣となったのが成務天皇時期でそれ以前から働いていたのでしょう。
●私個人は武内宿禰は「女系」だったのではないかと考えています。母から娘に権力が移譲される家系で、個人名が残っていなかったのではないかと。
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事績

成務天皇の大臣として国づくり
成務天皇の大臣として国境と県を定め、国造・県主を任命したとあります、景行天皇(12代)の時代でヤマトタケルが全国を取り込んで成務天皇(13代)の時に制度を整えたということでしょうね。成務天皇は記述は少ないですが、大和朝廷の発展に欠かせない天皇だったのでしょう。そこに建内宿禰の尽力があったのは間違いない。
仲哀天皇(15代)の臣下として儀式に
クマソ征伐の途中、神功皇后に神が降りたので仲哀天皇が琴を弾き、建内宿禰が沙庭(サニワ・審神者=神の言葉を受けるもの)です。この儀式は当時の政治形式を表しているのでしょう。神功皇后と仲哀天皇は実質、宗教的な存在で、建内宿禰が「実務者」であり、もしかすると建内宿禰こそが権力者だった可能性もある(と個人的には思う)。この儀式の途中で仲哀天皇は死亡。
仲哀天皇の死の処理と朝鮮征伐
仲哀天皇の遺体を処理し、殯の儀式を行っている。
その後は、神功皇后のお腹の子供が王であることを、神から聞かされます。その神が住吉の神であると分かります。これらは沙庭である建内宿禰の判断な訳で、朝鮮征伐も神→建内宿禰を経由して神功皇后を中心として為されていることを考えると建内宿禰が権力者というのは有り得るかなと。
古事記では朝鮮征伐後に神功皇后が帰国するときの香坂王忍熊王との戦争に建内宿禰は関わっておらず、将軍として任命された丸邇臣(ワニノオミ)の祖先の難波波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)が活躍します。
応神天皇の名前交換
応神天皇敦賀に滞在した時に、その土地の神の伊奢沙和気大神(イザサワケ)と名前を交換します。名前を交換するというのは、その土地が大和朝廷に「参加」したことを指しています。
で、その土地の神が「名前を交換する」ことを申し出たのが、建内宿禰の夢でした。となると建内宿禰にも霊力があり、宗教的な存在だったということになる。
仁徳天皇と髪長比売
まだ仁徳天皇が即位しておらず、応神天皇が存命の時、応神天皇が目をつけた女性「髪長比売」を仁徳天皇が欲しがり、応神天皇が譲るという話が有ります。その時、仁徳天皇の意思を応神天皇に伝えたのが建内宿禰です。これも沙庭の役割なのか?? 建内宿禰には神と人をつなぐという性質があるのかもしれない。

古事記には建内宿禰が歌った歌が挙げられている。
御子の為に答へて歌ひて曰はく
そらみつ 倭の国に 雁産むと 未だ聞かず
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出自

孝元天皇(8代)
伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)…穂積臣の祖先である内色許男命の娘
比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト

比古布都押之信命
山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)…木国造の祖先の宇豆比古の妹
建内宿禰(タケシウチノスクネ)…子供が男7人・女2人

子孫

波多八代宿禰(ハタノヤシロノスクネ)
子孫波多臣(ハタノオミ)・林臣(ハヤシノオミ)・波美臣(ハミノオミ)・星川臣(ホシカハノオミ)・淡海臣(アフミノオミ)・長谷部君(ハツセベノキミ)

許勢小柄宿禰(コセノヲカラノスクネ)
子孫許勢臣(コセノオミ)・雀部臣(サザキベノオミ)・軽部臣(カルベノオミ)

蘇賀石河宿禰(ソガノイシカハノスクネ)
子孫蘇我臣(ソガノオミ)・川辺臣(カハベノオミ)・田中臣・高向臣(タカムクノオミ)・小治田臣(ヲハリダノオミ)・桜井臣・岸田臣(キシダノオミ)

平群都久宿禰(ヘグリノツクノスクネ)
子孫平群臣(ヘグリノオミ)・佐和良臣(サワラノオミ)・馬御樴連(ウマノミクヒノムラジ)

木角宿禰(キノツノノスクネ)
子孫木臣(キノオミ)・都奴臣(ツヌノオミ)・坂本臣(サカモトノオミ)

久米能摩伊刀比売(クメノマイトヒメ)
子孫記述なし

怒能伊呂比売(ノノイロヒメ)
子孫記述なし

葛城(カヅラキノ)長江(ナガエノ)曽都毘古(ソツビコ)
子孫玉手臣(タマデノオミ)・的臣(イクハノオミ)・生江臣(イクエノオミ)・阿芸那臣(アギナノオミ)

若子宿禰(ワクゴノスクネ)
子孫江野間臣(エノマノオミ)
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引用(古事記のみ)

孝元天皇の子孫
またヒコフツオシノマコト命が木国造(キノクニノミヤツコ)の祖先の宇豆比古(ウヅヒコ)の妹の山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って産んだ子供が建内宿禰(タケシウチノスクネ)です。建内宿禰の子供は合わせて9人。男が7人で女は2人です。

建内宿禰の子孫
その建内宿禰の子供のうちの波多八代宿禰(ハタノヤシロノスクネ)は波多臣(ハタノオミ)・林臣(ハヤシノオミ)・波美臣(ハミノオミ)・星川臣(ホシカハノオミ)・淡海臣(アフミノオミ)・長谷部君(ハツセベノキミ)の祖先です。
建内宿禰の子供の一人、許勢小柄宿禰(コセノヲカラノスクネ)は、許勢臣(コセノオミ)・雀部臣(サザキベノオミ)・軽部臣(カルベノオミ)の祖先です。
建内宿禰の子供の一人、蘇賀石河宿禰(ソガノイシカハノスクネ)は、蘇我臣(ソガノオミ)・川辺臣(カハベノオミ)・田中臣・高向臣(タカムクノオミ)・小治田臣(ヲハリダノオミ)・桜井臣・岸田臣(キシダノオミ)等の祖先です。
建内宿禰の子供の一人、平群都久宿禰(ヘグリノツクノスクネ)は、平群臣(ヘグリノオミ)・佐和良臣(サワラノオミ)・馬御樴連(ウマノミクヒノムラジ)等の祖先です。
建内宿禰の子供の一人、木角宿禰(キノツノノスクネ)は、木臣(キノオミ)・都奴臣(ツヌノオミ)・坂本臣(サカモトノオミ)の祖先です。
建内宿禰の子供である、久米能摩伊刀比売(クメノマイトヒメ)、怒能伊呂比売(ノノイロヒメ)、次に葛城(カヅラキノ)長江(ナガエノ)曽都毘古(ソツビコ)は、玉手臣(タマデノオミ)・的臣(イクハノオミ)・生江臣(イクエノオミ)・阿芸那臣(アギナノオミ)等の祖先です。
建内宿禰の子供の一人、若子宿禰(ワクゴノスクネ)は、江野間臣(エノマノオミ)の祖先です。

成務天皇の功績
建内宿禰(タケシウチノスクネ)を大臣として、大国小国の国造(クニノミヤツコ)を定めました。
また国境を定めました。
また大小の県を定め、県主(アガタヌシ)を定めました。

神がかる、オキナガタラシヒメ
オキナガタラシヒメは、仲哀天皇が筑紫の香椎宮でクマソ討伐をしようとしていたとき、神がかりました。
仲哀天皇は琴を弾き、
建内宿禰は神を降ろす場で、神の言葉を受けました。

なほ大御琴をあそばせ
建内宿禰(タケノウチノスクネ)大臣が言いました。
「恐れ多いことです。
琴を弾いてください」

大祓いと罪悪
建内宿禰は驚きました。
そして仲哀天皇の遺体を、モガリの宮殿に移しました。
そこで国中から「ぬさ」を集めました。
「ぬさ」とは神に捧げる物品のことです。
その宮殿で、
生け剥ぎ…生きた獣の皮を剥ぐこと
逆か剥ぎ…尻尾から獣の皮を剥ぐこと
畦離(アハナチ)…田んぼの畦を壊すこと
屎戸(クソヘ)…聖なる神殿にウンコを撒き散らすこと
上通下通婚(オヤコタワケ)…親子間の近親相姦
馬婚(ウマタワケ)…馬との獣姦
牛婚(ウシタワケ)…牛との獣姦
鶏婚(トリタワケ)…鶏との獣姦
犬婚(イヌタワケ)…犬との獣姦
の罪を集めて、ケガレを払う儀式を行いました。
そしてまた、建内宿禰が沙庭で神の言葉を受けました。

その神の腹に坐す御子
建内宿禰は言いました。
「恐れ多い!
わが神よ!!!
その神の腹に宿る子は
男ですか? 女ですか?」
神を宿すオキナガタラシヒメ皇后は答えました。
「男だ」
そして建内宿禰は更に詳しくたずねました。
「今、言葉を教えてくださっている神の名を教えていただきたいのです」
と頼むと
すぐに答えました。

伊奢沙和気大神が夢に出る
建内宿禰は皇太子(=ホンダワケ【応神天皇】)を連れて禊(ミソギ)をしようと、近江や若狭を巡り、越前の敦賀(ツルガ)に仮宮を建てて、滞在していました。
その敦賀の土地にいる伊奢沙和気大神(イザサワケ)が建内宿禰の夢に出て言いました。
「わたしの名前をその子の名前に変えたい」
ソレに対して建内宿禰は
「恐れ多いことです。
おっしゃるとおりに名を交換しましょう」
するとその神は
「明日の朝、浜に出かけなさい。
名を変えた『しるし』を差し上げましょう」
と言いました。

御子の為に答へて歌ひて曰はく
そう歌って、ホンダワケ皇子に酒を捧げました。
建内宿禰が代わって歌いました。
この酒を醸した人は
鼓を臼のように立てて、
歌って醸したのか
踊って醸したのか
この酒は、酒は
なんと楽しい酒か! さぁ!
これは酒楽の歌です。

髪長比売その顔容麗美し
その少女が乗った船が難波津に来たのを皇太子である大雀命(オオサザキ)が見て、そのかわいらしさに感動して、すぐに建内宿禰に言いました。

応神天皇は豊明節会でカミナガヒメをオオサザキ命に与えた
「この日向から呼び寄せた髪長比売(カミナガヒメ)は応神天皇にお願いして、私に譲るよう言ってくれ」
とオオサザキ命は建内宿禰に言いました。
それで建内宿禰は天皇に願い出ると、すぐにカミナガヒメをオオサザキ命に与えました。

百済の朝貢
また新羅の人がやって来てきました。
そこで建内宿禰が新羅人を率いて、百済池を作りました。

そらみつ 倭の国に 雁産むと 未だ聞かず
ある時、天皇は豊楽(トヨアカリ=宴会)を開こうと思って、日女島(ヒメシマ=大阪市西淀川区姫島町、現在は内陸だが当時は島だった)に行ったとき、その島の雁が卵を産みました。それで建内宿禰命(タケノウチノスクネノミコト)を呼び寄せて歌で雁が卵を産んだ様子を問いました。その歌が
たまきはる(魂極はる) 内の朝臣(アソ) 汝(ナ)こそは 世の長人(ナガビト) そらみつ 倭(ヤマト)の国に 雁産(カリコ)むと聞くや
建内宿禰(タケノウチノスクネ)は歌で語りました。
たかひかる 日の御子 諾しこそ 問ひたまへ 真こそに 問ひたまへ 我れこそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 雁産むと 未だ聞かず
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