忍熊王(オシクマノミコ)

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忍熊王

投稿日時:2018-02-28 17:19:03
漢字・読みオシクマノミコ
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忍熊王(オシクマノミコ)

まとめ
●大中比売と仲哀天皇の子供。香坂王の弟。
神功皇后応神天皇・武内宿禰と敵対して戦争を行なった人物。
●敗北して死亡。
●菟餓野で誓約狩りを行うが、兄の香坂王はイノシシに食べられて死亡。
●将軍に伊佐比宿禰(日本書紀では五十狹茅宿禰)を任命した。
日本書紀では播磨の赤石で仲哀天皇の墓を作ることで戦争の準備をした。
●古事記では沙々那美にて伊佐比宿禰とともに死亡。日本書紀では瀬田で五十狹茅宿禰とともに死亡。

物語・由来

忍熊王(オシクマノミコ)は古事記に登場する人物。日本書紀では「忍熊王」「忍熊皇子」と記述される。音が同じなので同一人物。疑いようはないでしょう。
父親は仲哀天皇
古事記では母親が大中比売命大江王銀王の子)。日本書紀では大中姫(彦人大兄の子、母親は記述なし)。兄が香坂王応神天皇は異腹の弟となる。
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出自

古事記によると
景行天皇
配偶者不明
銀王(シロガネ)

大江王(オオエ)…景行天皇の皇子
銀王(シロガネ)…景行天皇の皇女で大江王とは異腹妹
大名方王(オオナガタ)
大中比売命(オホナカツヒメ)

応神天皇
大中比売命
香坂王
忍熊王

物語

仲哀天皇の子供である香坂王と忍熊王は、仲哀天皇の皇后である神功皇后が産んだ応神天皇(=ホンダワケ)が天皇になるのが我慢できず、朝鮮征伐から帰ってきた母子を兵士を集めて殺そうとします。その戦争の前に狩をして吉凶を占う「誓約狩(ウケイガリ)」をしたところ、イノシシ(日本書紀では赤いイノシシ)に香坂王が食い殺されてしまいます。誓約は神の意思を伺うものですから、これは明らかに敗北を示唆したもの。それでも忍熊王は戦争を始めます。

一方、日本書紀によると神功皇后も帰国の途中に船が進まなくなります。神功皇后はアマテラスと住吉の神を祀ることで鎮魂して大阪へとやってきます。この辺りは神功皇后と忍熊王の神との付き合い方の違いですね。
●神功皇后の軍は行軍の途中でその土地の問題を解決している。史実かどうかはともかく。
参考神功皇后(十九)常夜行く

忍熊王VS武内宿禰
神功皇后の忠臣の武内宿禰と忍熊王の戦争が始まります。
武内宿禰は「神功皇后は死んだ」と嘘をついて降伏するフリをして、弓と刀を捨てたフリをし、忍熊王軍が弓と刀を捨てて応じると、弓と刀を取り出し、だまし討ちをして、忍熊王軍は敗走、忍熊王と伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)は死んでしまいます。
●日本書紀では武内宿禰VS忍熊王。古事記では建振熊命VS忍熊王。上記の弓を捨てたふりという戦略も古事記では建振熊命のエピソードになっている。
●このエピソードはヤマトタケルVSイズモタケルのエピソードにも似ている(剣と模造刀を入れ替える謀略)。日本神話のおきまりのパターンだったのではないかと思う。
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解説

忍熊王の反逆の意味
仲哀天皇の子、忍熊王は筋からいえば次の天皇になっても不思議のない人物です。この時、応神天皇は生まれたばかりの乳飲み子。兄の香坂王は誓約狩でイノシシに食べられて死んだとなれば、次の天皇は忍熊王で決まりです。しかし、神功皇后・応神天皇の方が優勢だった。正確には神功皇后の「神性」が優勢ってことなんでしょうね。だからこそ、仲哀天皇の死後に墓を作るフリをして兵士を集めた。戦わなくては神功皇后の子供である応神天皇に持ってかれると考えた。つまり、このころの日本は男系の儒教的な世界観をこの時は持っていなかったということです。少なくとも儒教的な男系は絶対的な価値観ではなかった。優先順位として絶対じゃなかった。神に見初められた神功皇后こそが権力者にふさわしい存在だった。まるで鬼道を駆使して女王となった卑弥呼のようじゃないですか(日本書紀では神功皇后=卑弥呼と主張している)。
当時の日本は儒教の道徳と血統が絶対の世界観ではなく、「神」至上主義ともいうべき古代の価値観を持ち続けていたようなんです。ま、そう取ることもできますよね。香坂王・忍熊王の誓約狩での不吉な結果と、神功皇后たちが住吉大神・アマテラスの鎮魂や、アズナイの罪の解決で、神を重視する政策をとっているわけで、この対比も神至上主義の価値観ゆえ、じゃないかと思います。
東国との繋がり
忍熊王は東国の兵士を集めていることが書かれています。
犬上君(イヌカミノキミ)の祖先の倉見別(クラミワケ)と吉師(キシ)の祖先の五十狹茅宿禰(イサチノスクネ)は共に麛坂王(カゴサカノミコ)に付き、将軍として東国の兵を起こしました。

朝鮮征伐を終えた神功皇后は東国と「反する」存在だったのでしょう。朝鮮が日本に組み込まれることで東国はないがしろにされるという認識だった(のかもしれない)。そういう政治的・経済的な事情もあったのでしょう。忍熊王は東国の、というよりは既存の価値観・既得権益を守る保守的な代表者だったのですね。朝鮮と繋がって中国の文化を取り入れるようになる応神天皇と敵対するのはそういう背景もあったのだと思っています。むしろ、こっちの方が理由としては大きかったんじゃないでしょうか。
●東国は大和朝廷の影響下にはあったのですが、果たしてどこまで「影響下」にあったのかは怪しい。従属していたのとは違うんでしょう。
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引用

古事記からの引用
迦具漏比売命から大中比売命へ
このオオエ王が腹違いの妹である銀王(シロガネ)を娶って生んだ子供が大名方王(オオナガタ)、大中比売命(オホナカツヒメ)です。
大中比売命(オホナカツヒメ)は香坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)の母です。

穴門の豊浦、筑紫の訶志比宮
仲哀天皇は大江王(オオエ)の娘である大中津比売命(オオナカツヒメ)を娶って、香坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)の2柱が生まれました。

忍熊王の反逆
そうして大和へと進むと、香坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)がホンダワケ皇子の死と皇后の帰国をを知り、待ち伏せして皇后を殺そうと考えました。
それで斗賀野(トガノ)で、戦争の吉兆を狩によって占う「誓約狩(ウケイガリ)」をしました。

その態を畏まずて軍を興し
カゴサカ王の弟である忍熊王(オシクマ)は、その凶兆を恐れず、軍隊を指揮して、神功皇后の船を待ち伏せしました。
そして、喪船(モフネ)を迎えて、空船を攻撃しました。
神功皇后は船から軍隊を降ろして、戦いました。

山代に到りし時、還り立ちて各退かずて相戦ひき
忍熊王(オシクマノミコ)、難波の吉師部(キシベ)の祖先の伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を将軍に任命して戦いました。
ホンダワケ皇子(=応神天皇)は、丸邇臣(ワニノオミ)の祖先の難波波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)を将軍に任命して戦いました。
皇太子側が優勢で、戦闘はオシクマ王が後退していき、山城まで至りましたが、その後、オシクマ王は持ち直して、膠着状態となりました。

鳰鳥の淡海の海に
オシクマ王の軍勢は逢坂に退却し、そこで正面切って戦うことになりました。
しかし、神功皇后の軍勢に追い詰められ、沙々那美(ササナミ)に敗走しました。
忍熊王(オシクマノミコ)と伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)は追い詰められ、舟に乗って海で歌いました。
さぁ、わたしの王よ
フルクマに痛手を負わされるよりは
近江の海に身を投げましょう
すぐに海に身を投げて二人とも死んでしまいました。


日本書紀からの引用
仲哀天皇(四)皇后と妃とその子息
即位2年春1月11日。氣長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)を皇后としました。これ以前に叔父の彦人大兄(ヒコヒトノオオエ)の娘の大中姫(オオナカヒメ)を娶って妃としていました。麛坂皇子(カゴサカノミコ)・忍熊皇子(オシクマノミコ)を生みました。

神功皇后(十七)赤石に山陵を作る
そのとき、麛坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)は、父の仲哀天皇が崩御したこと、皇后が西の国を征伐したこと、また皇子(=後の応神天皇)が生まれたことを知って、密かに共謀していいました。
「今、皇后には子が居る。群臣(マヘツノキミタチ=家臣たち)は皆、従っている。必ず、共謀して幼い主(ミコ)を立てるだろう。我ら兄がどうして、弟に従えるだろうか!」
それで天皇のための陵(ミサザキ=墓)を作るふりをして播磨(ハリマ=現在の兵庫県)に行き、赤石(アカシ)に山陵(ミサザキ=山の墓)を作ることにしました。船を編んで(船を繋いで)、淡路島に渡して、その島の石を運んで造りました。それで兵を集めて、皇后を待っていました。犬上君(イヌカミノキミ)の祖先の倉見別(クラミワケ)と吉師(キシ)の祖先の五十狹茅宿禰(イサチノスクネ)は共に麛坂王(カゴサカノミコ)に付き、将軍として東国の兵を起こしました。

神功皇后(十八)広田国と活田長峽国と長田国と大津の渟中倉の長峽に祀る
麛坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)は共に菟餓野(トガノ=大阪市北区兎我野町)に出て、祈狩(ウケイガリ)をして言いました。
祈狩は于氣比餓利(ウケイガリ)と読みます。
「もしも事を成すことができるのならば、必ず良い獣(シシ)を得るだろう」
二人の王はそれぞれ假庪(サズギ=神を招く一段高い棚)に居ました。赤い猪がたちまち出て假庪(サズギ)に登って、麛坂王(カゴサカノミコ)を食い殺しました。軍士(イクサビト=兵士)は皆、怖気付きました。忍熊王(オシクマノミコ)は倉見別(クラミワケ)に語りました。
「これはこれから成す事の大きな怪(シルシ)だ。ここで敵を待つべきではない」
すぐに軍を引いて、更に帰って住吉(スミノエ)に駐屯しました。そのとき皇后は忍熊王(オシクマノミコ)が師(イクサ=軍隊)を起こして待っていると知っていて、武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて、皇子を抱いて、(神功皇后に対して)横を通り、南海(ミナミノミチ)から出て、紀伊水門(キノクノノミナト)に泊まりました。皇后の船は、直に難波へと向かいました。

神功皇后(十九)常夜行く
忍熊王(オシクマノミコ)はまた軍を引いて退き、菟道(ウジ=山城国宇治郡=現在の京都府宇治市)に到着して陣を敷きました。皇后は南の紀伊国に詣でて、太子(ヒツギノミコ=のちの応神天皇)と日高(ヒダカ=木国氷高評=紀伊国日高郡=現在の和歌山県日高郡)で会いました。群臣(マヘツキミ)話し合って、遂に忍熊王を攻めることになり、さらに小竹宮(シノノミヤ=紀伊国那珂郡志野村=現在の和歌山県那珂郡粉河町長田)に移りました。

神功皇后(二十)彼方の あらら松原 松原に
忍熊王(オシクマノミコ)は陣営から出て戦おうとしました。そのときに熊之凝(クマノコリ)という者がいました。忍熊王の軍隊の先鋒となりました。

神功皇后(二十一)儲弦を髪の中へ、木刀を佩け
武内宿禰(タケノウチノスクネ)は三軍(ミムロノイクサ=大軍のこと)に命令して、全員が椎結(カミアゲ=槌のように髪を結うこと=降伏の意味)をしました。それで命令しました。
「それぞれの儲弦(ウサユズル=控えに持った弓の弦)を髪の中に収めて、木刀(コダチ)を身につけろ」
準備が終わったら皇后の命令をあげて、忍熊王(オシクマノミコ)を誘い騙そうと言いました。

忍熊王(オシクマノミコ)はその誘い騙す言葉を信じて、全員の軍衆(イクサビト=兵士)に命令して、兵(ツワモノ=兵器)を河水(カワ)に投げ入れて、弦(ユズル)を切らせました。
すると武内宿禰(タケノウチノスクネ)は三軍(ミタムロノイクサ)に命令して、(髪の中に隠しておいた)控えの弦を出して、張って、真刀(マサヒ=真剣)を帯刀しました。河を渡って進みました。忍熊王は欺かれたことを知って、倉見別(クラミワケ)・五十狹茅宿禰(イサチノスクネ)に言いました。
「私は騙された。今、予備の兵器は無い。どうして戦えるだろうか」
兵を引き、退きました。

神功皇后(二十二)逢坂と狹々浪の栗林の地名説話
忍熊王(オシクマノミコ)は逃げて隠れるところがありませんでした。そこで五十狹茅宿禰(イサチノスクネ)を呼び寄せて歌を歌いました。
いざ吾君(アギ) 五十狭茅宿禰(イサチスクネ)
たまきはる 内(ウチ)の朝臣(アソ)が
頭槌(クブツチ)の 痛手(イタテ)負(オ)はずは
鳰鳥(ニホドリ)の 潜(カヅキ)せな
そうして二人とも瀬田(セタ=滋賀県の瀬田川)の沈んで死んでしまいました。
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