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神功皇后(十八)広田国と活田長峽国と長田国と大津の渟中倉の長峽に祀る
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時、麛坂王・忍熊王、共出菟餓野而祈狩之曰(祈狩、此云于氣比餓利)「若有成事、必獲良獸也。」二王各居假庪、赤猪忽出之登假庪、咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰「是事大怪也。於此不可待敵。」則引軍更返、屯於住吉。時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武內宿禰、懷皇子横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船廻於海中、以不能進、更還務古水門而卜之、於是天照大神誨之曰「我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田国。」卽以山背根子之女葉山媛、令祭。亦稚日女尊誨之曰「吾欲居活田長峽国。」因以海上五十狹茅、令祭。亦事代主尊誨之曰「祠吾于御心長田国。」則以葉山媛之弟長媛、令祭。亦表筒男・中筒男・底筒男三神誨之曰「吾和魂、宜居大津渟中倉之長峽。便因看往來船。」於是、隨神教以鎭坐焉。則平得度海。
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現代語訳
麛坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)は共に菟餓野(トガノ=大阪市北区兎我野町)に出て、祈狩(ウケイガリ)をして言いました。
「もしも事を成すことができるのならば、必ず良い獣(シシ)を得るだろう」
二人の王はそれぞれ假庪(サズギ=神を招く一段高い棚)に居ました。赤い猪がたちまち出て假庪(サズギ)に登って、麛坂王(カゴサカノミコ)を食い殺しました。軍士(イクサビト=兵士)は皆、怖気付きました。忍熊王(オシクマノミコ)は倉見別(クラミワケ)に語りました。
「これはこれから成す事の大きな怪(シルシ)だ。ここで敵を待つべきではない」
すぐに軍を引いて、更に帰って住吉(スミノエ)に駐屯しました。そのとき皇后は忍熊王(オシクマノミコ)が師(イクサ=軍隊)を起こして待っていると知っていて、武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて、皇子を抱いて、(神功皇后に対して)横を通り、南海(ミナミノミチ)から出て、紀伊水門(キノクノノミナト)に泊まりました。皇后の船は、直に難波へと向かいました。
皇后の船は海で回って進むことが出来ませんでした。そこで務古水門(ムコノミナト=兵庫県尼崎市武庫川)に帰って占いました。すると天照大神(アマテラスオオミカミ)は教えて言いました。
「私の荒魂(アラミタマ)を皇后の近くに居られない。その御心(ミココロ)は広田国(ヒロタノクニ=摂津国武庫郡広田神社=現在の兵庫県西宮市大社町)に居るべきだ」
すぐに山背根子(ヤマシロノネコ)の娘の葉山媛(ハヤマヒメ)に祭らせました。また、稚日女尊(ワカヒルメノミコト)が教えて言いました。
「吾(ワレ)は活田長峽国(イクタノナガオノクニ=摂津国八部郡生田神社=現在の神戸市生田区下山手通)に居る」
そこで海上五十狹茅(ウナガミノイサチ)に祭らせました。
また事代主尊(コトシロヌシノミコト)が教えて言いました。
「吾(ワレ)を御心の長田国(ナガタノクニ=摂津八部郡長田神社=現在の神戸市長田区長田町)に祀れ」
それで葉山媛(ハヤメヒメ)の妹の長媛(ナガヒメ)に祭らせました。
また、表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)の三柱の神が教えて言いました。
「吾の和魂(ニギミタマ)を大津(オオツ=大きな港のこと?)の渟中倉(ヌナクラ=地名だが未詳)の長峽(ナガサ=地形)に居る。行き交う船を見ていた」
そこで神の教えのままに鎮めて祀りました。
するとすぐに(進めなかった船が)平和に海を渡ることができました。
古事記の対応箇所
忍熊王の反逆
香坂王を咋ひ食みき
祈狩は于氣比餓利(ウケイガリ)と読みます。
「もしも事を成すことができるのならば、必ず良い獣(シシ)を得るだろう」
二人の王はそれぞれ假庪(サズギ=神を招く一段高い棚)に居ました。赤い猪がたちまち出て假庪(サズギ)に登って、麛坂王(カゴサカノミコ)を食い殺しました。軍士(イクサビト=兵士)は皆、怖気付きました。忍熊王(オシクマノミコ)は倉見別(クラミワケ)に語りました。
「これはこれから成す事の大きな怪(シルシ)だ。ここで敵を待つべきではない」
すぐに軍を引いて、更に帰って住吉(スミノエ)に駐屯しました。そのとき皇后は忍熊王(オシクマノミコ)が師(イクサ=軍隊)を起こして待っていると知っていて、武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて、皇子を抱いて、(神功皇后に対して)横を通り、南海(ミナミノミチ)から出て、紀伊水門(キノクノノミナト)に泊まりました。皇后の船は、直に難波へと向かいました。
皇后の船は海で回って進むことが出来ませんでした。そこで務古水門(ムコノミナト=兵庫県尼崎市武庫川)に帰って占いました。すると天照大神(アマテラスオオミカミ)は教えて言いました。
「私の荒魂(アラミタマ)を皇后の近くに居られない。その御心(ミココロ)は広田国(ヒロタノクニ=摂津国武庫郡広田神社=現在の兵庫県西宮市大社町)に居るべきだ」
すぐに山背根子(ヤマシロノネコ)の娘の葉山媛(ハヤマヒメ)に祭らせました。また、稚日女尊(ワカヒルメノミコト)が教えて言いました。
「吾(ワレ)は活田長峽国(イクタノナガオノクニ=摂津国八部郡生田神社=現在の神戸市生田区下山手通)に居る」
そこで海上五十狹茅(ウナガミノイサチ)に祭らせました。
また事代主尊(コトシロヌシノミコト)が教えて言いました。
「吾(ワレ)を御心の長田国(ナガタノクニ=摂津八部郡長田神社=現在の神戸市長田区長田町)に祀れ」
それで葉山媛(ハヤメヒメ)の妹の長媛(ナガヒメ)に祭らせました。
また、表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)の三柱の神が教えて言いました。
「吾の和魂(ニギミタマ)を大津(オオツ=大きな港のこと?)の渟中倉(ヌナクラ=地名だが未詳)の長峽(ナガサ=地形)に居る。行き交う船を見ていた」
そこで神の教えのままに鎮めて祀りました。
するとすぐに(進めなかった船が)平和に海を渡ることができました。
古事記の対応箇所
忍熊王の反逆
香坂王を咋ひ食みき
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解説
忍熊王の誓約(ウケイ)
誓約をして「獣を狩る」のですが、なんと猪に食われて相棒のカゴサカノミコが殺されてしまいました。
大和朝廷は新羅と征伐することによって「馬の毛でできたハケ」と「ムチ」を毎年献上させることに成功しました。これを日本書紀で書き残すのは、大和朝廷が獣の死穢(シエ=死の穢れ)を恐れて、動物の死骸から取れる材料から工芸品を作れなかったからです。
日本人は動物の死の穢れを恐れたのに、どうして忍熊王は「獣を狩る」なんてことをしたのでしょうか? 忍熊王は東国の後押しを受けた東国意見を通すための代表者だったからです。その象徴としてこのような物語が付与されたのでしょう。
忍熊王は東国、つまり蝦夷などの大和朝廷に服属しつつ、大和朝廷とは違う文化を残す集団の代表者でした。大和朝廷とは違う文化、それは「肉食」です。肉を食い、動物の穢れとは関係のない思想・宗教を持っていた。蝦夷を「毛人」と書いたのは獣の毛皮をまとっていたからでしょう。だからこれまでは大和朝廷に重宝されていた。ところが朝鮮半島を服属させた今、東国の意義が薄れてしまう。そういう危機感があった。
神功皇后が大和へと帰って来て、東国に配慮することで忍熊王は梯子を外されてしまいます。戦争する理由が無くなるのです。
朝鮮征伐に関わった神々
神功皇后(二)天疎向津媛命と尾田吾田節之淡郡所居神と事代主と神功皇后(三)表筒男・中筒男・底筒男神に登場する4種の神と、このページで登場する、アマテラス・ワカヒルメ・コトシロヌシ・住吉三神が対応しているとされます。
これらの神は朝鮮征伐に出る前は九州と山口を中心に祭られていました。それらが、神功皇后の帰還とともに兵庫県に移動したのです。これが東国への配慮だった、と考えています。
誓約をして「獣を狩る」のですが、なんと猪に食われて相棒のカゴサカノミコが殺されてしまいました。
大和朝廷は新羅と征伐することによって「馬の毛でできたハケ」と「ムチ」を毎年献上させることに成功しました。これを日本書紀で書き残すのは、大和朝廷が獣の死穢(シエ=死の穢れ)を恐れて、動物の死骸から取れる材料から工芸品を作れなかったからです。
日本人は動物の死の穢れを恐れたのに、どうして忍熊王は「獣を狩る」なんてことをしたのでしょうか? 忍熊王は東国の後押しを受けた東国意見を通すための代表者だったからです。その象徴としてこのような物語が付与されたのでしょう。
忍熊王は東国、つまり蝦夷などの大和朝廷に服属しつつ、大和朝廷とは違う文化を残す集団の代表者でした。大和朝廷とは違う文化、それは「肉食」です。肉を食い、動物の穢れとは関係のない思想・宗教を持っていた。蝦夷を「毛人」と書いたのは獣の毛皮をまとっていたからでしょう。だからこれまでは大和朝廷に重宝されていた。ところが朝鮮半島を服属させた今、東国の意義が薄れてしまう。そういう危機感があった。
神功皇后が大和へと帰って来て、東国に配慮することで忍熊王は梯子を外されてしまいます。戦争する理由が無くなるのです。
朝鮮征伐に関わった神々
神功皇后(二)天疎向津媛命と尾田吾田節之淡郡所居神と事代主と神功皇后(三)表筒男・中筒男・底筒男神に登場する4種の神と、このページで登場する、アマテラス・ワカヒルメ・コトシロヌシ・住吉三神が対応しているとされます。
これらの神は朝鮮征伐に出る前は九州と山口を中心に祭られていました。それらが、神功皇后の帰還とともに兵庫県に移動したのです。これが東国への配慮だった、と考えています。
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