彼方の あらら松原 松原に

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神功皇后(二十)彼方の あらら松原 松原に

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原文

三月丙申朔庚子、命武內宿禰・和珥臣祖武振熊、率數萬衆、令擊忍熊王。爰武內宿禰等、選精兵、從山背出之、至菟道以屯河北。忍熊王出營、欲戰。時、有熊之凝者、爲忍熊王軍之先鋒。熊之凝者、葛野城首之祖也。一云、多吳吉師之遠祖也。則欲勸己衆、因以、高唱之歌曰、

烏智箇多能 阿邏々麻菟麼邏 摩菟麼邏珥 和多利喩祇氐 菟區喩彌珥 末利椰塢多具陪 宇摩譬等破 于摩譬苔奴知野 伊徒姑播茂 伊徒姑奴池 伊裝阿波那 和例波 多摩岐波屢 于池能阿層餓 波邏濃知波 異佐誤阿例椰 伊裝阿波那 和例波
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現代語訳

仲哀天皇即位10年)3月5日に武内宿禰(タケノウチノスクネ)・和珥臣(ワニノオミ)の祖先の武振熊(タケフルクマ)に命じて数万の衆(イクサ=兵士)を率いて忍熊王(オシクマノミコ)を撃たせました。武内宿禰(タケノウチノスクネ)達は精兵(トキツワモノ=精鋭の兵)を選んで、山背(ヤマシロ)へと出ました。菟道(ウジ=現在の京都府宇治市)に到着して川の北に駐屯しました。忍熊王(オシクマノミコ)は陣営から出て戦おうとしました。そのときに熊之凝(クマノコリ)という者がいました。忍熊王の軍隊の先鋒となりました。
熊之凝(クマノコリ)は葛野城首(カズノノキノオビト)の祖先です。ある伝によると、多吳吉師(タゴノキシ)の遠い先祖だといいます。

自分の兵士を勧めようと思って、声高く歌を歌いました。

彼方(オチカタ)の あらら松原 松原に
渡り行きて 槻弓(ツクユミ)に まり矢を副(タグ)へ
貴人(ウマヒト)は 貴人(ウマヒト)どちや
親友(イトコ)はも 親友(イトコ)どち
いざ闘(ア)はな 我(ワレ)は たまきはる
内(ウチ)の朝臣(アソ)が
腹内(ハラヌチ)は 小石(イサゴ)あれや
いざ闘(ア)はな 我(ワレ)は

歌の訳遠くの松原までやって来て、弓に(先の丸い)矢を添えて、高貴な人は高貴な人と、親友は親友と、さぁ戦おう。武内朝臣の腹のなかに小石が詰まっているはずがない。さぁ、戦おう、我らの軍はっ!

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解説

宇治で忍熊王と神功皇后は決戦となります。宇治は古代では要衝だったよう。天武天皇の壬申の乱のときでも宇治は要衝となりました。
宇治彼方神社
京都に宇治彼方神社と書いて「オチカタ」と読む神社があることから、ここの「オチカタ」は地名かもしれない。地名だと考えたほうがスッキリします。
武内朝臣
この歌謡がどの時点で成立したものかは分かりません。実際に戦争のときに歌われたとは考えにくいですから、古事記編纂時にあった歌か、それ以前からあった歌なのでしょう。
そうなると武内朝臣という言葉が妙です。武内宿禰のことを指す言葉ですが、なぜ歌謡に武内朝臣が出るのか? しかも武内朝臣の前の言葉の「タマキハル」は「内」か「命」にかかる枕詞です。もしかして武内宿禰という人物は「神話の人物」ではないか?と。ただ「実在しなかった」という意味ではありません。複数の人物の功績を吸い込んで成立した人物なのでしょう。ヤマトタケルと成立の仕方が似ているのではないかと。
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