神功皇后の摂政元年

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神功皇后(二十四)神功皇后の摂政元年

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原文

冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛巳、則爲攝政元年。

二年冬十一月丁亥朔甲午、葬天皇於河內国長野陵。

三年春正月丙戌朔戊子、立譽田別皇子爲皇太子、因以都於磐余。是謂若櫻宮。

現代語訳

仲哀天皇即位10年=神功皇后摂政1年)冬10月2日。群臣(マヘツノキミタチ)は皇后を尊び、皇太后としました。この年、太歲辛巳(カノトノミ)でした。それで摂政(マツリゴトフサネヲサメタマフ)元年(ハジメノトシ)としました。

即位2年冬11月8日。天皇を河内国の長野陵(ナガノノミサザキ)に葬りました。

即位3年春1月3日。譽田別皇子(ホムタワケノミコ=のちの応神天皇)を皇太子に立てました。磐余(イワレ)に都を作りました。
これを若桜宮(ワカサクラノミヤ)と言います。
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解説

摂政(セッショウ)
摂関政治の「摂政」です。これは天皇が幼い場合に、その親戚が実務を行うことを言います。実際に神功皇后が「摂政」と名乗って政治を行っていたかというと、一般には「それはない」ということになっています。また神功皇后の「架空」説は根強くあり、歴史上の最初の摂政は「聖徳太子」ということになっています。

それでも、日本書紀という正史で、当時「摂政」という言葉が無かったとしても、摂政の立場で政治を行ったと書いてあるのだから、摂政ではあるのでしょう。

むしろ聖徳太子の時代に、仏教を取り入れ、(夫の敏達天皇を亡くした)推古天皇という女性天皇を立てて、朝鮮に征伐に行っているということを考えると、聖徳太子の時代に神功皇后を習った(真似した)と考えたほうが、自然に思うのです。
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