臣が長いこと帰ってこないと妻子が没落して奴隷に

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神功皇后(二十五)臣が長いこと帰ってこないと妻子が没落して奴隷に

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原文

五年春三月癸卯朔己酉、新羅王遣汙禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智等朝貢、仍有返先質微叱許智伐旱之情、是以、誂許智伐旱而紿之曰「使者汙禮斯伐・毛麻利叱智等、告臣曰『我王、以坐臣久不還而悉沒妻子爲孥。』冀、蹔還本土知虛實而請焉。」皇太后、則聽之、因以、副葛城襲津彦而遣之。

現代語訳

即位5年春3月7日。新羅の王(コキシ)は汙禮斯伐(ウレシハツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)・富羅母智(ホラモチ)たちを派遣して朝貢しました。それで以前に人質として日本に来ていた微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)を返して欲しいという心がありました。それで、許智伐旱(コチホツカン)は引っ掛けて欺こうとして言いました。
「使者の汙禮斯伐(ウレシハツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)たちは臣(ヤツカレ=部下)に
『わたしの王は臣が長いこと帰ってこないと、その妻子が没落して、孥(ツカサヤツコ=官奴=政府所有の奴隷)となる』と言っています。
願わくはしばらく本土(=新羅)に帰って、虚実(イツワリマコト)を報告したいのです」
皇太后はすぐに願いを聞き、帰国を許しました。
それで葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を彼らに付いて行かせました。
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解説

事情
神功皇后が朝鮮征伐を行ったときに、新羅の王から人質を取っています。
神功皇后(十二)波沙寐錦は微叱己知波珍干岐を人質に
新羅の王の波沙寐錦(ハサムキム=第五代王の婆娑尼師今)は微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ=第十七代王の奈勿尼師今の子の未斯欣のこと)を人質として、金(コガネ)・銀(シロガネ)・彩色(ウルワシキイロ)、及び、綾(アヤキヌ=絹織物)・羅(ウスハタ=織り方の特殊な薄い絹織物)・縑絹(カトリノキヌ=細かく硬く縫った絹織物)をもたらして、八十艘(ヤソカハラ=たくさんの)船に載せて、官軍に従いました。新羅の王は常に八十船(ヤソフネ)の貢物を日本国(ワガミカド)に献上するようになりました。これがその由縁です。

この微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)がこのページの微叱許智伐旱(ミシコチホツカン)に当たります。未斯欣が人質として倭国に連れられるのは朝鮮の歴史書の三国史記にも三国遺事にも書かれています。
人物関係
未斯欣の父は奈勿尼師今(17代)と言います。奈勿王は次の王となる実聖尼師今(18代)を子供の時に高句麗に人質として送りました。それを実聖尼師今(18代)は恨んでいて、今度は奈勿尼師今(17代)の子供である未斯欣を倭国に人質として送り、同じく奈勿尼師今(17代)の子の訥祇麻立干(19代)を高句麗に人質として送り、暗殺しようとしたと描かれています。
三国史記の文章をそのままに受け取ることは出来ませんが、新羅の王が高句麗と日本に人質を送って、どうにか国を保っていたのは間違いなく、当時の新羅王の立場はかなり不安定だったと思われます。「臣が帰ってこないと妻子が奴隷になる」という記述は「史実」と捉えて問題ないと思われます。
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