此の御酒は 吾が神酒ならず

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神功皇后(二十七)此の御酒は 吾が神酒ならず

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原文

十三年春二月丁巳朔甲子、命武內宿禰、從太子、令拜角鹿笥飯大神。癸酉、太子至自角鹿、是日皇太后、宴太子於大殿。皇太后舉觴以壽于太子、因以歌曰、

虛能彌企破 和餓彌企那羅儒 區之能伽彌 等虛豫珥伊麻輸 伊破多々須 周玖那彌伽未能 等豫保枳 保枳茂苔陪之 訶武保枳 保枳玖流保之 摩菟利虛辭彌企層 阿佐孺塢齊 佐佐

武內宿禰爲太子答歌之曰、

許能彌企塢 伽彌鶏武比等破 曾能菟豆彌 于輸珥多氐々 于多比菟々 伽彌鶏梅伽墓 許能彌企能 阿椰珥 于多娜濃芝作 沙

現代語訳

即位13年春2月8日。武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて太子(ヒツギノミコ=応神天皇)を連れて角鹿(ツヌガ=現在の福井県敦賀)の笥飯大神(ケヒノオオミカミ)に参拝に行きました。

17日。太子は角鹿から帰りました。
この日に皇太后は太子と大殿(オオトノ)で宴(トヨノアカリ=宴会)をしました。皇太后は觴(ミサカズキ=杯)を挙げて、太子に寿(サカホカイ=酒祝い=酒を飲み祝いあうこと)をしました。それで歌いました。

此の御酒(ミキ)は 吾(ワ)が神酒(ミキ)ならず
神酒(クシ)の司(カミ) 常世(トコヨ)に坐(イマ)す
いはたたす 少御神(スクナミカミ)の
豊寿(トヨホ)き 寿(ホ)き廻(モト)ほし
神(カム)寿(ホ)き 寿(ホ)き狂(クル)ほし
奉(マツ)り来(コ)し御酒(ミキ)そ
あさず飲(ヲ)せ ささ

歌の訳このお酒は私だけの神酒ではありません。神酒の司である常世の国にいる少名彦(=スクナヒコナ)が、祝いの言葉を述べながら、歌って踊り狂って、醸(カモ)したお酒です。さぁ、この酒を残さず飲みなさい。さぁさぁ!


武内宿禰(タケノウチノスクネ)が太子に変わって答えて歌いました。
此(コ)の御酒(ミキ)を 醸(カ)みけむ人は
その鼓(ツヅミ) 臼(ウス)に立てて
歌ひつつ 醸(カ)みけめかも
この御酒(ミキ)の あやにうた楽しさ さ

歌の訳このお酒を醸した人は、鼓を臼のように立てて、歌って醸したからでしょう。このお酒の美味しいこと。さぁさぁ。

古事記の対応箇所
酒の司 常世に坐す 石立たす 少名御神
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解説

二つの歌
日本書紀には神功皇后と武内宿禰が歌った歌ですが、古事記では神功皇后が息子である応神天皇に歌った歌として、二つの歌が「一つ」になっています。
臼と石
古事記では「石立たす」とあるのに日本書紀では「臼に立てて」とあります。石と臼では全然違うような気がしますが、景行天皇オウスオオウスが生まれるときに、臼を背負って周囲を回ったことや、神功皇后が石で出産を遅らせたという伝承から考えると、石・臼は「出産」に関係している言葉です。
夫の仲哀天皇が死んだ年の12月に生まれた応神天皇ですから、神功皇后即位13年ということは「大人になった」わけです。成人式のようなものです。

ただし、この歌自体は皇后たちの歌ではなく、民間の歌謡であり、それを取り込んだと思われます。
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