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摂政
漢字・読み | セッショウ |
摂政(セッショウ)
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摂政の記述について
最初の摂政の記述は日本書紀の神功皇后。神功皇后は仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母。仲哀天皇が九州遠征の際に死に、その後に応神天皇が生まれるのですが、応神天皇がまだ幼い時期、摂政として政務を行なったのが神功皇后です。ただ、この時代に「摂政」という言葉はなかったとされ、神功皇后が後の時代の摂政と呼べるものだったのかは分からない。それでも、神功皇后が当時「摂政」と呼ばれていなくても、摂政の役割を果たしていた可能性はある、というか状況を考えると実質、摂政。少なくとも状況を考えれば一緒。
もしくは、神功皇后が実質「天皇」だったのかもしれません。
次に摂政になるのは、厩戸豊聡耳皇子…つまり聖徳太子です。
その次は天武天皇の子の草壁皇子尊です。
摂政の評価がダントツに高いのは聖徳太子です。
聖徳太子が死んだ時、みんなが悲しんだと書いてあります。
古事記・日本書紀を読む限り、聖徳太子(厩戸皇子)はかなり評価が高かったようです。神功皇后の「摂政」は、聖徳太子の「威厳」を借りたというべきか…聖徳太子の特別な感じと、神功皇后の特別な感じが近いという感覚があって、遡って神功皇后=「摂政」になったのではないかもしれません。
もしくは、神功皇后が実質「天皇」だったのかもしれません。
次に摂政になるのは、厩戸豊聡耳皇子…つまり聖徳太子です。
その次は天武天皇の子の草壁皇子尊です。
●草壁皇子が摂政をしたのは、天武天皇が病気で政務を行えなかったから?とも思われるが、よく分からない。
摂政の評価がダントツに高いのは聖徳太子です。
聖徳太子が死んだ時、みんなが悲しんだと書いてあります。
古事記・日本書紀を読む限り、聖徳太子(厩戸皇子)はかなり評価が高かったようです。神功皇后の「摂政」は、聖徳太子の「威厳」を借りたというべきか…聖徳太子の特別な感じと、神功皇后の特別な感じが近いという感覚があって、遡って神功皇后=「摂政」になったのではないかもしれません。
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性格・能力
古事記や日本書紀の成立は8世紀初めですが、その元ネタは6世紀末から7世紀初めの聖徳太子の時代に書いた「帝紀・国記」とされていますし、100年ほど離れていますが、聖徳太子の実像がそれほど乖離したものを書いているとは思えません。
よく「聖徳太子」という名称は後の時代のことだから、聖徳太子は実在していなかった、なんてことを言いますが、それで「聖徳太子は存在しない」という理屈が成立するのならば、死後に名前を贈られた弘法大師や諸々の人たちの存在が無くなってしまいます。後に聖徳太子、当時は厩戸皇子と呼ばれた人物は実在し、評価が高かったのは間違いない。そして、日本書紀が成立した時に、厩戸皇子を特別視しなくてはいけない事情はないです。よってどう考えても厩戸皇子・聖徳太子は実在し、評価が高かった。
では、なぜ聖徳太子と神功皇后は近い感じがあったのか。
そもそも、神功皇后と武内宿禰(タケノウチノスクネ)という「女王と有能な部下」という組み合わせが朝鮮征伐と日本の繁栄を導いたことがあり、それに習って「推古天皇と厩戸皇子」というコンビが生まれたのではないか?? と考えています。過去にうまくいった歴史を倣った。聖徳太子はどうも平和な文官というイメージがあるんですが、朝鮮征伐に出兵しようとしています(途中でやめたけど)。ちなみに「朝鮮の任那を取り返してくれ!」と遺言した欽明天皇は聖徳太子の祖父です。祖父の遺言を果たそうとしたとも取れますね。
聖徳太子と摂政の実像
摂政は「天皇が執務できない」から、摂政が代わりに政務を行うものです。でも、推古天皇が「政務ができない」のでしょうか。一方、聖徳太子が摂政になったのは18歳か19歳の若輩中の若輩。当時の19歳の聖徳太子がいかに(精神的に)大人であったとして、有能だとしても、いくらなんでも有りえない。現代の評価では推古天皇は「蘇我氏の傀儡」とされますが、蘇我氏が「俺は葛城出身だから、あの土地をくれ!」と求めると推古天皇は「そんなの認めたら、私がアホだと思われる!」と一蹴しています。
推古天皇は「傀儡」だったんでしょうかね。
ちゃんとした意思を持った女性天皇と考えるのが妥当じゃないでしょうか。
まぁ、それがどの程度の「意思」なのかはなんとも言えませんが、全くの操り人形ではないと考えるべきじゃないでしょうか。
となると聖徳太子の「摂政」ってよく分かりませんよね。
聖徳太子は「法王」のようなポジションだったんじゃないでしょうか。
私は摂政の意味は、現在の定説と、当時の意味合いに乖離があるんじゃないかと思っています。
よく「聖徳太子」という名称は後の時代のことだから、聖徳太子は実在していなかった、なんてことを言いますが、それで「聖徳太子は存在しない」という理屈が成立するのならば、死後に名前を贈られた弘法大師や諸々の人たちの存在が無くなってしまいます。後に聖徳太子、当時は厩戸皇子と呼ばれた人物は実在し、評価が高かったのは間違いない。そして、日本書紀が成立した時に、厩戸皇子を特別視しなくてはいけない事情はないです。よってどう考えても厩戸皇子・聖徳太子は実在し、評価が高かった。
では、なぜ聖徳太子と神功皇后は近い感じがあったのか。
そもそも、神功皇后と武内宿禰(タケノウチノスクネ)という「女王と有能な部下」という組み合わせが朝鮮征伐と日本の繁栄を導いたことがあり、それに習って「推古天皇と厩戸皇子」というコンビが生まれたのではないか?? と考えています。過去にうまくいった歴史を倣った。聖徳太子はどうも平和な文官というイメージがあるんですが、朝鮮征伐に出兵しようとしています(途中でやめたけど)。ちなみに「朝鮮の任那を取り返してくれ!」と遺言した欽明天皇は聖徳太子の祖父です。祖父の遺言を果たそうとしたとも取れますね。
聖徳太子と摂政の実像
摂政は「天皇が執務できない」から、摂政が代わりに政務を行うものです。でも、推古天皇が「政務ができない」のでしょうか。一方、聖徳太子が摂政になったのは18歳か19歳の若輩中の若輩。当時の19歳の聖徳太子がいかに(精神的に)大人であったとして、有能だとしても、いくらなんでも有りえない。現代の評価では推古天皇は「蘇我氏の傀儡」とされますが、蘇我氏が「俺は葛城出身だから、あの土地をくれ!」と求めると推古天皇は「そんなの認めたら、私がアホだと思われる!」と一蹴しています。
推古天皇は「傀儡」だったんでしょうかね。
ちゃんとした意思を持った女性天皇と考えるのが妥当じゃないでしょうか。
まぁ、それがどの程度の「意思」なのかはなんとも言えませんが、全くの操り人形ではないと考えるべきじゃないでしょうか。
●推古天皇は傀儡ではないが、実務能力がなかった。という可能性もありますね。のちの後白河天皇はそのタイプです。
となると聖徳太子の「摂政」ってよく分かりませんよね。
聖徳太子は「法王」のようなポジションだったんじゃないでしょうか。
私は摂政の意味は、現在の定説と、当時の意味合いに乖離があるんじゃないかと思っています。
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日本書紀からの引用
神功皇后(二十四)神功皇后の摂政元年
応神天皇(一)腕の肉の形が鞆に似ている
用明天皇(三)皇后と子息子女
推古天皇(三)厩戸豊聡耳皇子の出自
天武天皇(八十四)律令と法式・草壁皇子尊の立太子
(仲哀天皇即位10年=神功皇后摂政1年)冬10月2日。群臣(マヘツノキミタチ)は皇后を尊び、皇太后としました。この年、太歲辛巳(カノトノミ)でした。それで摂政(マツリゴトフサネヲサメタマフ)元年(ハジメノトシ)としました。
応神天皇(一)腕の肉の形が鞆に似ている
皇太后の摂政3年に皇太子となりました。
そのとき、年齢は3つ。
そのとき、年齢は3つ。
用明天皇(三)皇后と子息子女
この皇子は始めは上宮(カミツミヤ)に居ました。後に斑鳩(イカルガ)に移りました。豊御食炊屋姫天皇(トヨミケカシキヤヒメノスメラミコト=推古天皇)の世に東宮(ミコノミヤ)に居ました。万機(ヨロズノマツリゴト=政治)を摂政となって担当し、天皇の仕事を行いました。このことは豊御食炊屋姫天皇(=推古天皇)の紀に見えます。
推古天皇(三)厩戸豊聡耳皇子の出自
(即位1年)夏4月10日。厩戸豊聡耳皇子(ウマヤトノトヨトミミノミコ=聖徳太子)を皇太子としました。摂政を行いました。万機(ヨロズノマツリゴト=政治の全て)を全て委ねました。
天武天皇(八十四)律令と法式・草壁皇子尊の立太子
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